【法然】智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし

2014年5月14日
イラスト:nihhiイラスト:nihhi

ふつう「智者」と聞けば、「それっていいことなんじゃないの?」と思ってしまいますよね。でも、法然さんはそのようにふるまうことを戒めている……。これはいったいどういうことなのでしょう。

法然さんの言う「智者のふるまい」ということばには、たとえば自分の持っている知識を自慢したり、知ったかぶりをしたり……そういった類いのわかりやすく「おろかな」ふるまいのことだって、もちろん含まれているでしょう。でも、もしかしたら、そういったものよりも、もっともっと、遥かに広い範囲のこと……それこそ過去から得た知識の積み重ねの上でやっていること、そのまますべてが、「智者のふるまい」になってしまうのかもしれないな、とも思うのです。

それに、この知識を持つ「自分」というのは、いったい誰のことなのでしょう?

たとえば、この記事を書いている「小出遥子」が自己紹介をしようとすると、昭和59年に茨城で生まれ、新潟の田舎町で雪と海と田んぼに囲まれて育ち、うだうだした思春期を経て、大学進学とともに上京、だらだらとした学生生活ののち、へなへなとした社会人生活を送り、現在は31歳で、ごく最近、川沿いのマンションに引越しをしたばかり、4月の終わりからこのメルマガを担当していて……というようなことになりますが、実はこれだって、過去の知識を寄せ集めた情報に過ぎません。そのままイコールで「自分」になるのか? と問われると、それは、やっぱり違うよなあ……と、強烈な違和感を覚えるのです。

この違和感の源は、やはり、それらの情報が、あくまで「過去」という名の実体のなきものであり(「過去」、そして「未来」も、実は、私たちの頭の中にしか存在できないまぼろしです)、「いま、ここに、直に生きる“自分”」の内実には一ミリも触れていない、とういう直観にあるのだと思います。

自分がくっつけて歩いている「過去」の情報をひとつひとつ脱ぎ捨てていった先に残るのは、「自分が自分だと思っている自分なんか、実はどこにもいなかった!」という事実です。それはできれば知りたくない事実かもしれません。でも、そうやって「過去」という名のまぼろしにとらわれずに、「いま」「ここ」を見つめてみようとするところからしか、「直に生きる」ことははじまっていかないのかもしれない。

念仏の「念」は、「いま」の「こころ」、と書きますね。冒頭の法然さんのことばは、「過去」の知識にとらわれてしまう私たちの意識を、いつでも「いま」「ここ」に置くことの大切さを、教えてくれているような気がするのです。「直に生き」たいのならば、「いま」「ここ」を生きよ、と。

南無阿弥陀仏

「ほぼ週刊彼岸寺門前だより」2015年5月17日発行号より転載)