【維摩経】譬えば高原の陸地には蓮華を生ぜず 卑湿の淤泥にすなわち此の華を生ずるが如し

2014年5月14日
イラスト:nihhiイラスト:nihhi

最近、とても魅力的な女性に出会いました。笑顔が本当に力強いのです。自分を飾りたいとか、人にどう思われたいとか、そういった計算の一切が存在しない笑顔。ただただ、いま、ここにある、笑顔としてだけの、笑顔。

「めちゃめちゃ苦しいことも、そりゃあたくさんあったし、生きることやめたいって思ったことだって数え切れない。でもね、そのぜんぶが、“いま”につながっているから。本当に、いまは、すべてに感謝。こころから、ありがとう、って思っているよ。」

そうまっすぐに言い切って、彼女は、力強く笑うのでした。「花咲くような」とは、まさにこの笑顔のことを指すのだと思いました。笑っている彼女からは、実際に光が放たれているように見えるのです。本当に、思わず手を合わせたくなってしまうぐらい、尊い笑顔を見せてくれるのです。

譬(たと)えば高原の陸地には蓮華を生ぜず。
卑湿(ひしつ)の淤泥(おでい)にすなわち此の華を生ずるが如し。

蓮の花は泥沼に咲きます。そのことから、蓮を清浄な仏の世界の象徴、泥沼を煩悩に満ちた凡夫の世界の象徴とみる説明をよく見かけます。泥(煩悩)に染まらずに、気高くうつくしい花を咲かせる蓮(仏)こそ、礼賛すべき存在である、と。それは、たしかに、とてもわかりやすいお話ではあります。

でも、私は彼女の笑顔を見て、そして「ありがとう」のことばを聞いて、思ったのです。一見して汚れた泥沼の中にも、きっと、うつくしい蓮の花の上とまったく同様に、仏のはたらきが存在しているのだろうな、と。

泥がなければ、花は咲きません。泥を嫌がり、不要なものとして捨て去ってしまえば、花もまた同時に捨て去ってしまうことになります。そこはいつだってセット、決して切り離すことはできないのです。

だからと言って、泥を厭う気持ちを即座に消せる人なんかいないでしょう。そりゃあ誰だって苦しいのは嫌です。避けたいに決まっています。それでも、そこにも、いや、そこにこそ、仏の世界へと目を向けさせる機縁がある。その事実を、理屈を超えたところから理解できた瞬間を、人々は「救い」と呼んできたのではないかな……。そんなことを思ったのでした。

「泥にこそ……」を体現している彼女の笑顔と出会えたこと、この素晴らしいご縁に、こころの底から、ありがとう、です。

「ほぼ週刊彼岸寺門前だより」2015年5月24日発行号より転載)