【最澄】一隅を照らす、これすなわち国宝なり

2014年5月14日
イラスト:nihhiイラスト:nihhi

「一隅を照らす」

とっても有名なことばですね。みなさんも、きっと、どこかで目にされたことがあるのではないでしょうか。

自分の置かれた場所で、目の前のことを精一杯やっていく、それがそのまま周りを照らすことになる……。素敵ですよね。ちっぽけな私には、世の中全体を照らすような大きなことはきっとできない。でも、一隅を照らすことぐらいなら……。いま、自分にできることを、ひとつひとつ、丁寧にやっていこう。このことばには、そんな風に、人のこころをやさしく鼓舞してくれるようなあたたかさがあるように思います。実際、私も、長年、このことばを、ほとんど座右の銘のようにして生きてきました。

が、ここでひとつ、大変ざんねんなお知らせが……。なんと、「一隅を照らす」は誤読で、「一隅を守り、千里を照らす」が正しい、とする説があるというのです。「一隅」と「千里」では、照らす範囲がまったく違います。これを知ったときには、「真逆の意味になっちゃうじゃん……」と、正直、たいそう戸惑ったし、途方に暮れました。結果、このことばから、一時期、気持ちがすっかり離れてしまいました。

でも。最近になって、私はこう感じるようになったのです。「一隅を照らす」ように生きることと、「千里を照らす」ように生きることは、実は、まったく矛盾しないのだ、と。

人がもっとも光を放つのは、「いま」にくつろいでいるとき、だと思うのです。「過去」や「未来」という、実体のないまぼろしにとらわれずに、ただただ「いま」に生きているとき、人は、結果として、周りを大きく照らす存在になるのではないかな、と。

逆に言えば、「いま」に生きることさえできれば、「誰かのために、なにかをしよう!」と力むようなことをしなくても、ごくごく自然に、一切の無理なく、そのような存在になっているのです。これは、私の周りのものすごく魅力的な人たちを見ていて、確実に言い切れることです。彼らは、仕事でも、家庭でも、どんな場においても、いつだって、「いま」だけに生きています。

「いま」は、すべての存在の共通の基盤です。「いま」から逃れられる存在はありません。そして、Aさんのいる「いま」と、Bさんのいる「いま」、Cさんのいる「いま」は、それぞれ、まったく異なるものではないのです。すべて、まったくもって、同じ「いま」です。「いま」は、「ひとつ」――正真正銘、「ひとつ」です。

「ひとり」としての「私」と、「すべて」としての「わたし」は、「いま」を基盤として、まったく同時に成り立っています。

つまり、ひとりが「いま」を生きたら、その光は、文字通り「すべて」の「いま」を照らすことになるのです。そして、その、「すべて」の「いま」を照らす光こそを、最澄さんは、「宝」と呼んだのではないかな……。そんな風に感じるのです。

「一隅を照らす」ことは、「千里を照らす」こと。逆もまた然り。

「いま」を生きていこう。私には、それしかできない。でも、それさえできれば、十分だ。

一周回って、しみじみと、そう思っているところです。

「ほぼ週刊彼岸寺門前だより」2015年5月31日発行号より転載)