私にとって、仏教は、長年、「極上のおとぎ話」でした。
仕事に疲れたとき、人間関係に悩んだとき、自分の進むべき方向を見失ったとき、不安で寂しくて苦しくてどうしても眠れない夜……。
そんなとき、仏教にまつわるあれやこれやは、私に、とてつもなくうつくしい「夢」を見せてくれました。
黄金色に輝くきらびやかな仏の世界。一切の苦しみが存在しないという極楽浄土の様子……。
「素敵だな。こんなところが、本当にあったらいいのにな。」
それらについて思うことは、私のこころをなぐさめ、ひと時の安らぎをくれました。
毎日、毎晩、ほとんど精神安定剤を服用するようにして、私は、仏教の世界観に浸っていました。
そう、私にとって、仏教は、目の前のつらい「現実」からの、恰好の避難場所だったのです。
その大切な「避難場所」が、あるとき、なんの前触れもなく、突然、奪われてしまったのです。
突然の気づきが、私を訪れたのです。
仏教は、まったくもって、おとぎ話なんかじゃなかった――
仏教が語っているのは、遥か遠くの知らない世界のことなんかじゃなくて、
まさに、「いま」、「ここ」、この「わたし」のお話、そのものだったのだ――
それが、私が、仏の世界に「つかまれた」瞬間でした。
そう、まさに、「つかまれた」といった感じでした。
もう、どうしようもなく、つかまれてしまったのです。
「逃れられなくなってしまった……」と思いました。
仏教“に”逃れることができなくなった。
と同時に、
仏教“から”逃れることができなくなった。
だって、それは、そのまままるごと、「わたし」のお話だったのだから。
「わたし」としてある限り、仏教は、いや、「仏」は、決して、逃してくれないだろう、と思いました。
その「逃れられなさ」は、しかし、そのまま、「救い」でした。
かつてない安心感が、私をすっぽりと包み込んでいきました。
いや、包み込まれる「なにか」はおらず、「わたし」は、安心感そのものとして、ただただ、「いま」「ここ」に「在る」だけなのでした。
ただ、それだけなのでした。
仏法遥かにあらず 心中にしてすなわち近し
私は、「わたし」を、生きていく。
遥か遠くのどこか、ではなく、まさに「いま」「ここ」にただただ「在る」、「仏」の世界を生きていく。
これからも、そして、これからも。
ずっと、ずっと。
(「ほぼ週刊彼岸寺門前だより」2015年6月7日発行号より転載)