【日蓮】まず臨終のことを習うて、のちに他事を習うべし

2014年5月14日
イラスト:nihhiイラスト:nihhi

「人は、他人の死は体験できても、自分の死だけは、決して体験できない」

あるとき、ふいにこの事実に気づいた私は、あまりにびっくりして、思わずその場で立ちつくしてしまいました。

これ、考えてみれば当たり前すぎるほどに当たり前のお話なんです。だって、自分が死ぬときには、それを「体験」するべき自分もいなくなっているわけだから。でも、あらためてこの事実に直面したときの衝撃には、すさまじいものがありました。

そして思ったんです。「体験することができないなら、せめて、思う(想う)ということをしないとな……」と。

「生」と「死」はいつだってセットです。「生」があるからこそ「死」が成り立ち、「死」があるからこそ「生」が成り立つ。そこは決して切り離して考えることはできません。

つまり、「死」を思うことは、そのまま「生」を思うことだということ。逆に言えば、「死」を思わずして、「生」を思うことなど、不可能だということ。

まず臨終のことを習うて、のちに他事を習うべし――

この「他事」というのは、すべて「生」に立脚したものです。「生」と「死」がセットである以上、「臨終」を習わずして、「他事」を習うことなどできるはずがないのです。

それ自体を自分で「体験」することはできなくても、「死」について考える、という「体験」はできます。

「いま」を生きる。仏教の基本であるここに戻るために、「死を思う(想う)」ことは、実は、外せないポイントなのかもしれません。

私も、あらためて、思いを馳せてみようと思います。

「ほぼ週刊彼岸寺門前だより」2015年6月21日発行号より転載)