【親鸞】自身を深信す

2014年5月14日
イラスト:nihhiイラスト:nihhi

今回のことばは親鸞さんの『愚禿抄』からの抜粋です。「エゴの心にまとわりつかれ、迷いに埋没して生きるよりほかない愚かなわが身のありようを、深く信知すること」といった意味になるのだそうです。
大谷大学「きょうのことば」1997年1月号より

と、ここで、急に私自身の話になって恐縮ですが、「自分を信じることさえできたら、無敵なのになあ」なんてことをよく思うんです。

自分を縛っているのは、世界でただひとり、自分だけ。自分さえ、それを許可することができるなら、私たちは、どこにだって行けるし、なんだってできるのにな、と。「自信」が、欲しいな、と。

でも、ふと思ったんです。その、信じるべき対象としての「自分」っていうのは、もしかしたら、個別の肉体、個別の意識を持った、この「私」のことじゃないのかもしれない、と。

この「私」を深く深く観察していくと、その先には「私が私だと思っていた“私”なんか、実は、どこにもいなかった!」という驚きの真実が立ち現れてきます。

「諸行無常」のことばが表す通り、この世のすべては「縁」によって生じては滅し、滅しては生じていく流動的な存在です。この「すべて」は文字通り「すべて」です。この「私」だってまったく例外ではありません。ご縁のダイナミズムの中の一瞬の結節点にしか過ぎない、この「私」を信じろと言っても、それはなかなか難しい相談です。

でも、じゃあ、すべてを「そのようなもの」として存在させている「ご縁のダイナミズム」は、一体なにによって生み出されているの? と言うと……それはもう、完全に、ことばを超えたところのお話になってきてしまうのです。

それでも、思い切って表現するなら……ことばを超えたところに「ある」、いや、なくて「ある」、ないからこそ「ある」、その「なにかしらのはたらき」、それこそを「仏」と呼ぶのではないのかな……と。

つまり、「自分を信じる」とは、究極的には「仏を信じる」ということ。そこにこそ、「自信」というものが生まれてくるのではないでしょうか。いや、「ほんとうの自信」などというものは、実は、そこにしか成り立たないものなのかもしれません。

自分を信じたいのなら、まずは「私」の成り立ちを深く深く見つめることから。目をそらさずに見つめ続けた結果、この「私」を超えたところに、「どこにだって行けるし、なんだってできる」、そんな頼もしさを発見することができるのではないでしょうか。

そんなことを思うのです。

「ほぼ週刊彼岸寺門前だより」2015年6月28日発行号より転載)