藤田一照さんとの対話/かたちなきいのちに「触れられた」瞬間

2018年9月13日

私が今回お訪ねしたのは、禅僧の藤田一照さんです。このダイアローグシリーズも今回で12回目になるのですが、「いのちからはじまる話をしよう。」というタイトルに、ここまで大きく反応してくださったのは、一照さんがはじめてでした。実は「いのち“からはじまる”」というところに密かに大きな意味を込めていた私は、もう、のっけから大感激! スタートダッシュに乗ったような感じで、スムーズに対話を進めることができました。

いまここに、こうして「私」があることの不可思議さ、つまりはいのちのあり方の不可思議さに「触れられた」ところから、一照さんの仏道ははじまったと言います。以前、一照さんは「10歳のときにその問いを持って、でも、いまだに決着がついていないんですよ」と笑ってお話しになっていましたが、私は、そんな一照さんのあっけらかんとした明るさに、なにか救われた気持ちがしたのを覚えています。

「わからない」ものを「わかる」ものに変えてしまうのではなく、「わからない」ものを「わからない」ままに、そのままの大きさで扱っていく。そこにこそ、仏道の真髄があるのかもしれない……。そんな風に感じたのです。そんな道があること自体、大きな「救い」そのものじゃないか、と。

今回も、また、無理やり結論を出すようなことは一切せず、いのちの「わからなさ」をたのしんで分かち合うような、そんな素敵な対話となりました。ほんの少し難解なところもあるかもしれませんが、同じ「問い」を持つ方には、なにか届いてくれるのではないかと思っています。どうか、最後までじっくりとおたのしみくださいませ。

「いのちについての話をしよう。」ではなく……

小出:今日は「いのちからはじまる話をしよう。」ということでお邪魔しています。

藤田:「いのちからはじまる話」って、なかなか意味深ですね。これ、つまり「いのちについて」の話じゃない、っていうことでしょ?

小出:ああ、そうです! そこに全ポイントがあるんですよ!(笑) 対象としていのちを語るのではなくて、むしろ、それを語ろうとする「この私」をもひっくるめたところから、いろいろとお話ができたらうれしいな、と。

藤田:オブジェクト(客体)じゃなくて、サブジェクト(主体)の話だよ、っていうことでしょ? 問題意識は「あっち」じゃなくて「こっち」に向いているわけですね。

小出:そうそう。ここで言っている「いのち」は、そもそも対象になりようのないものなので……。

藤田:対象について語るときには、それについて語っている私が隠れてしまうわけですよ。でも、いのちって、いつだって自分抜きでは語れないというか、自分ごと巻きこまれているようなあり方をしているから、言葉でそれを扱おうとすることが、そもそも矛盾に満ちた行為なんですよね。

小出:だから「いのちからはじまる話をしよう。」というのが、その領域を侵さない、ギリギリのラインなのかな、と(笑)。

藤田:道元さんの『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』という本の中に「回光返照(えこうへんじょう)」という言葉が出てきますけれど、これもそういうことですよね。向こう側に光を当てるのではなくて、むしろこちら側に向けるのだ、と。その方向性で話をしていかないとね。

小出:はい! よろしくお願いします。

私たちは、地球ぐるみ、宇宙ぐるみのいのちを生きている

藤田:僕、さっき、いのちを考えるときは、自分ぐるみで考えなきゃいけない、って言ったけど、その自分というものをよく見ていくと、地球大、宇宙大にまで視野を広げていかなきゃならなくなると思うんですよ。地球ぐるみ、宇宙ぐるみのいのちっていうことですよ。

小出:地球ぐるみ、宇宙ぐるみのいのち……。いきなり話のスケールが大きくなりましたね(笑)。

藤田:でも、実際そうでしょう? 僕らのいのちは、生まれてから死ぬまで、地球という惑星の中にあるわけで。肺ひとつ取ってもそうですよ。僕らの肺って、地球の重力や大気の組成を前提とした形態、サイズ、はたらき方をしているわけですよね。

小出:確かに。この肺をそのまま月に持っていっても、まったく機能しないでしょうね。これはあくまで地球仕様の肺だから。

藤田:そう。肺だけじゃなくて、心臓も、皮膚も、髪の毛も、ぜんぶそうですよ。すべて、宇宙の中の地球という惑星の環境に合ったかたちで作られている。宇宙とこの肉体っていうのは、最初からセットになっているんですよ。うまくできているというよりは、最初からその中に組み込まれたかたちでいのちが作られている。

小出:なるほど……。肉体の話だといまのお話はすごく納得がいくんですけれど、でも、たとえば、人間って、ほんとうは考えなくてもいいようなこと、端的に言えば「不自然」なことも考えられるように作られているわけですよね? 「考える」という行為自体が不自然だ、という言い方をされる方もいらっしゃいますし。でも、それもまた、組み込まれて、そういう風にできている、と考えても良いのでしょうか?

藤田:そうですね。組み込まれていると考えた方がいいと思います。いのちってそれこそ無限のはたらきですからね。無限の外に出ることはできないのと同じように、不自然なことも、また、自然の中に組み込まれている、と。無限のはたらきの懐からはみ出るものはないと考えた方が、ほんとうに近いんじゃないですかね。

「部分」と「全体」のサイズは同じ!?

小出:あらためて考えると、「無限」っていうのも相当面白いコンセプトですよね。

藤田:そうだね。仏教をやっていく上で「無限」の実感を持つことはすごく大切なんですよ。

小出:「無限」って実感できるものなんですか?

藤田:できますよ。たとえばこういう話は知っていますか? 数直線ってありますよね。0があって、右にプラス、左にマイナスがある、あの直線。たとえば、0から1までの間を区切り取りますよね。これが「部分」になるわけね。さて、ここで問題です。この部分の中にある実数の数と、全体にある実数の数は、果たしてどちらが多いでしょうか?

小出:???

藤田:部分には端っこがあります。全体には端っこがありません。実数の数は、部分と全体、どっちが多いと思いますか? 

小出:うーん……。(しばらく考えて)「同じ」ですかね……? なんだか不思議な感じがしますけれど、やっぱり、「同じ」としか言えないような……。

藤田:そう、「同じ」なんですよ。これ、面白くない? 部分と全体はサイズが同じなんですよ。

小出:部分と全体はサイズが同じ!?

藤田:無限のサイズとしては同じなんです。これ、部分の中に全体があるということの証明になると思いますよ。

小出:部分の中に全体が……。

藤田:そう。「一即一切(いっそくいっさい)」の世界観ですね。いまのをさっきの話とつなげれば、僕らの肺はそのまま宇宙に内包されているし、僕らの肺がそのまま宇宙を内包している、ということも言えると思います。

小出:気が遠くなるようなお話ですけれど……。

藤田:単純な話ですよ。無限の中に部分の集合があるわけですよね。部分っていうのは有限ですよね。区切れるわけですから。

小出:はい。

藤田:でも、その区切りの外側には、いつだってそれを含む無限の集合があるわけで。だから要素が無限にあるようなものですよね。

小出:たとえて言うなら、ひとつひとつの「波」の背後には、いつだって「海」という無限のはたらきがあるようなものですかね?

藤田:そうだね。海という無限のはたらきが、波という有限のかたちを作り出すわけだからね。だから、いのちってふたつの言いあらわし方ができるんですよ。ひとつは有限のいのち、つまり「かたちあるいのち」。もうひとつは無限のいのち、つまり「かたちなきいのち」。僕らが一時的に知覚できるものは「かたちあるいのち」ですよね。でも、波が海から生まれてくるように、ほんとうは「かたちあるいのち」は、すべて「かたちなきいのち」から生じているんですよ。

小出:「かたちあるいのち」は、「かたちなきいのち」から生まれる……。