【空海】物に定まれる性なし。人、何ぞ常に悪ならん。 縁に遭うときはすなわち庸愚も大道を乞い願う。 × 【親鸞】さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし。

2014年5月14日
イラスト:nihhiイラスト:nihhi

「“私”というのは、どこまでも、“縁によって”成り立っている存在なのだなあ……」

そんなことを、ふと、深く実感するようなときがあります。

なにも大げさな話じゃないんです。たとえば、以前はまったく好きになれなかった、むしろ苦手だと思っていた、とあるバンドの音楽を久しぶりに耳にしたら、どういうわけかこころに深く染みこむものがあって、すっかり夢中になってしまった……とか。もしくは、若い頃、かなり激しく反発していた母親の口癖を、最近になって、あまりにも自然に口に出している自分に気づいてしまった……とか。

私たちは普段、“私”という固定化された存在があると思いこんで暮らしています。でも、もしそれが正しいのだとしたら、いま並べたような事態は絶対に発生しないと思うのです。だって、“私”がずっとずっとずーっと切れ目なく続いている存在なのだとしたら、そこにはいかなる変化も起こらないはずなのだから。でも、実際には、上記のようなことは、割と頻繁に起こっている……。

そうすると、「もしかして、“私”が“私”だと思っている“私”なんて、実はどこにもいないんじゃないの……?」と考える方が自然になってきます。すべては“縁によって”、瞬間ごとに生じては滅し、滅しては生じている流動的な存在であり、固定化された“私”など、ほんとうは、どこにも成り立ちようがないのだ、と。空海さんのおっしゃる「物に定まれる性なし」とは、こういう意味なのではないでしょうか。定まった性質などどこにもないからこそ、私たちは、“縁次第”で、親鸞さんのおっしゃるように、「いかなるふるまいをもすべ」き存在なのだろうな、と。

随分と偉そうにこんなことを書き連ねている私ですが(すみません……)、でも、これだって、すべて“縁によって”起こってきたこと。「昔」の“私”には、冒頭のふたつのことばを理解することはできなかった、いや、理解しようとも思えなかった。いま、再び、空海さんと親鸞さんのことばに出会えた(出遭えた)ことを、しみじみとありがたく感じています。

ただただ、この“ご縁”に感謝するばかりです。

「ほぼ週刊彼岸寺門前だより」2015年7月12日発行号より転載)