【一休】元の身はもとのところへかえるべしいらぬ仏をたずねばしすな

2014年5月14日
イラスト:nihhiイラスト:nihhi

お盆ですね。この時期、お墓参りに行かれる方も多いのではないでしょうか。

お墓の前でじっと手を合わせていると、ふいに、「人は、死んだらどこへ行くのだろう?」なんてことを考えはじめてしまう自分がいます。そんなときに、決まって思い出すのが、今回取り上げた、一休禅師の道歌です。「この身体は、もといたところに還っていくのが当然のこと。仏にたずねる必要もない」といった意味になるでしょうか。では、その「もといたところ」とは、いったい、どこのことなのでしょうか。

ここで、もうひとつ、一休さんの辞世の句として伝わっている歌を紹介します。

死にはせぬ どこにも行かぬ ここにいる 
たずねはするな ものはいわぬぞ

この歌は、実際には、後世の創作である可能性も高いという話ですが、自らを「風狂子」と名乗った一休さんのこと。このような句を遺していたとしても不思議ではないですし、冒頭に挙げた歌と、とてもよく似た世界観が、ここからは感じられるように思うのですが、いかがでしょうか。

さて、もしそうだとしたら、一休さんの言う「もといたところ」は、そのまま「ここ」ということになります。これは、「いま・ここ」の、「ここ」、つまりは、「空(くう)」ということになるのではないでしょうか。

仏教では、なんらかのかたちとして存在しているもの(「色(しき)」)は、すべて、目には見えない「縁」に依って成り立っている、つまり「空」である、と説明されます。生じては滅し、滅しては生じ……を繰り返す、「縁」というものの一瞬の結節点(「縁起」)こそが「色」だということです。

「色」は、死という経験により、またあらたな「縁」へとつながっていきます。

しかし、もともと「いま・ここ」のすべてだって、瞬間ごとに、「縁」に依って生滅を繰り返しているのだとしたら……。つまり、文字通り“すべて”は、そのまま、「色」であり、同時に「空」であるのだとしたら……。生と死の境目すら、なんとも曖昧なものになってはこないでしょうか。

もちろん、生きている者にとって、親しい存在の死は圧倒的なものです。もう姿を見ることができない、声を聴けない、触れることも叶わない……。それらの事実は、身を切られるような思いを、遺された者に運んできます。私自身、過去、幾度も、死別の苦しみを味わってきました。

でも……。もし、生も死も関係なく、目に見えるものも見えないものも、耳に聞こえるものも聞こえないものも、手で触れるものも触れられないものも、元々、すべて、「いま・ここ」に「在る」のだとしたら……? そして、その“真実”は、ほんとうは、いつだって私たちに「開かれている」のだとしたら……? 私たちは、「いま・ここ」で、ほんとうは、いつだって「会える」のだとしたら……?

もしかしたら、これ以上のなぐさめはないのかもしれません。

よいお盆をお過ごしください。

「ほぼ週刊彼岸寺門前だより」2015年8月9日発行号より転載)