【盤珪】不生で聞く

2014年5月14日
イラスト:nihhiイラスト:nihhi

盤珪永琢(ばんけいようたく)禅師は、江戸時代前期の臨済宗のお坊さん。平易なことばで、人々に広く法を説いて回ったという伝承のある人物です。

その盤珪さんが一生涯となえ続けたのが「不生の仏心」の教え。「不生」というのは、文字通り「生まれることのないもの」、逆から言えば「死ぬことのないもの」。つまり、「生まれも死にもせず、ただ、あるがままに“ある”もの」ということです。その教えがもっとも凝縮された部分が、以下の文章になるかと思います。少し長くなりますが、引用しますね。

「親の産み付けてたもったは、仏心ひとつでござる。余のものは一つも産み付けはしませぬ。その親の産み付けてたもった仏心は、不生にして、霊明なものに極まりました。不生な仏心、仏心は不生にして霊妙なものでござって、不生で一切のことが調いまするわいの。

その不生で調いまする証拠は、みなの衆がこちらを向いて、身どもがこう言うことを聞いてござるうちに、後ろにてカラスの声、雀の声、それぞれの声が、聞こうと思う念を生ぜずに居るに、カラスの声、雀の声が通じ別れて、間違わずに聞こゆるは、不生で聞くというものでござるわいの。その如くに一切のことが不生で調いまする。これが不生の証拠でござるわいの」

これを読んで、私は、いかにも不思議な気分になりました。確かに、普段、何気なく生活しているだけで、自分がいちいち「聞こう」と意図しなくても、身の回りの一切の音は聞こえてきます。カラスの声、雀の声、セミの声、風の音、木々のざわめき、通りを走る車の音、道行く人々の話し声、笑い声、お湯の沸く音、時計の秒針の進む音、ノートPCのかすかな呻り……。「聞こう」とするより前に、すでに一切が「聞こえて」いる。このことの壮大さに、あらためて目(耳?)を開かされて、ひどく感動してしまったのでした。

ところで、最近、あるお坊さんから、このようなお話をお聞きしました。「私たちがなにかに気づくわけじゃない。“気づき”の中に、私たちがあるんです。私たちは、“気づき”の海で泳いでいるだけなんです」……。

私たちが、自分の意思をもって「見る」以前、「聞く」以前、「触れる」以前、「嗅ぐ」以前、「味わう」以前、「感じる」以前の、なんのラベル付けもされずに、ただただ、あるがままに“ある”「すべて」を、あるがままに「見て」「聞いて」「触れて」「嗅いで」「味わって」「感じて」いる、「生まれもしないし死にもしない“なにか”」としか呼べないもの。実は、その「なにか」こそが、「ほんとうのわたし」であり、盤珪さんのおっしゃる「不生の仏心」なのではないでしょうか。

盤珪さんは、続けてこのようにおっしゃいます。

「その不生にして霊明なる仏心に極まったと決定(けつじょう)して、直に仏心のままで居る人は、今日より未来永劫の活仏(いきぼとけ)活如来(いきにょらい)でござるわいの」

気づきの海の中で、ただただ“すべて”とともにある。そのように生きている人は、そのまま「活仏(いきぼとけ)」である、と……。

私たちは、ほんとうは、みな、「仏さま」なのかもしれませんね。

南無仏

「ほぼ週刊彼岸寺門前だより」2015年9月6日発行号より転載)