【聖徳太子】和を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ

2014年5月14日
イラスト:nihhiイラスト:nihhi

今回は日本仏教の原点までさかのぼって、ことばをチョイスしてみました。言わずと知れた「十七条憲法」の第一条の文言ですね。この憲法は、一般に、仏教思想を中核として組み立てられたものと考えられています。

実は、少し前まで、私は、このことばが、まったく好きではありませんでした。「そりゃあ、そうできたら素敵だとは思うけど、“みんな仲良く”なんて、結局、綺麗ごとに過ぎないんじゃないの? そもそも、そんなルール、無理やり押し付けられたくないよ。小学生じゃあるまいし」と。

さらに私が反応してしまったのは後半の部分。「さからうなって……。“上”の言うことは、ぜんぶ聞かなきゃいけないってこと? 勘弁してよ」と。

でも、自分なりに仏教の学びを深めていったとき、少しずつ、このことばに対する思い込みも外れていったような感覚がありました。

まず、後半の「忤(さか)ふること無きを……」というところ。これは、もしかしたら「仏法(ダルマ)」に対して「さからう」ことを戒めているのではないのかな、と。

ここで言うダルマとは、とくに「縁起の法」を指します。すべては「縁」によって生じ、「縁」によって滅する、という思想ですね。およそこの世にあらわれた事象で、この縁起のネットワークの中にないものはありません。文字通り、すべては「縁次第」なのですね。

すべての存在は、「縁」の一瞬の結び目に過ぎない。「縁起」のネットワークの中に、どうしようもなく組み込まれている、という点においては、「私」と「あなた」の間には、一ミリの差もないのだ、と。すべて、「お互いさま」なのだ、と。

このことが深いところから理解できたとき、そこには、おのずと「ゆるしあい」のこころが生まれてくるのではないでしょうか。そして、その「ゆるしあい」のこころの発現こそが、太子のあらわす「和」という一文字に集約されていくのではないでしょうか。

上記は、あくまで私の勝手な解釈ではありますが、そのように受け取ってみると、この憲法は、いまという時代にも、そのまま適用させることができるのではないかな、と……そんなことを思ったのでした。

「和」ということばの意味について、ひとりひとりが真剣に問い直すべきときが来ているのかもしれませんね。私も、いま一度、向き合ってみようと思います。

「ほぼ週刊彼岸寺門前だより」2015年9月13日発行号より転載)