「いのち」は「体感」とともにある 〜TANDENメソッドのベースにあるもの〜

2019年2月8日

※2月11日までインドにおります。
その間のブログは日本にいるうちに予約投稿してあります。
よろしくお願いいたします◎

 

今日のブログには、先日の記事に書いた、噂の「ボツ原稿」を
思い切って転載します!(笑)

先方さんのご意向に添えなかったというだけで、
原稿自体にはなにも問題はないというか(自分で言うな!笑)、
ここにはTANDENメソッドの本質的な部分が端的に表現されているので、
このままお蔵入りさせるのはもったいないな、と思いまして。

おたのしみいただけましたらさいわいです◎
この「転載の儀」をもって、この原稿が無事成仏しますよう!(笑)

「いのち」は「体感」とともにある

 読者のみなさま、こんにちは。小出遥子と申します。おそらく、「はじめまして」の方が大半だと思いますので、まずは簡単に自己紹介をさせていただきます。
 
 私は、現在、「TANDENメソッド」というオリジナル瞑想の発案・指導者として活動しています。と言っても、この肩書きを名乗り始めたのはごく最近のことです。それまでは、ライターとして活動し、主に仏教系のテキストの執筆(お坊さんのインタビュー記事の構成など)をしていました。
 
 そんな私が、なぜ、「瞑想」という分野で活動を始めるようになったのか。そのベースには、私自身の、大きな問題意識が横たわっています。
 
 生意気を承知で申し上げます。現代の宗教者は、ともすると教義、教学などの知識に偏りがちで、それが体感をともなった知恵(智慧)にまで高まっていかない。それではまったく意味がないのではないか。ほかでもない私自身の体験から、そう、強く感じるようになりました。
 
 私自身、随分長い間、「真理」を探求し続けてきました。私には、物心ついた頃から、存在そのものに対する不安が、常につきまとい続けていました。生きるというのはどういうことなのか。死ぬというのはどういうことなのか。そもそも「いのち」とはなんなのか……。

 この根源的な問いに対する答えが提示されないうちは、自分はずっと、どうしようもない不安感と付き合い続けなくてはならないだろう。そんなふうに考えていました。

 その問いが明確に意識にのぼってきた瞬間から、私の真理探求が始まりました。

 しかし、結論から言うと、その旅は、私にとって、非常に苦痛に満ちたものになりました。求めても求めても求めきれない。「いのち」の根源に触れる感覚が得られない。もしかしたら、探求を始める前の方が、まだ苦しみは少なかったのではないか……。そんなふうに思うほど、苦しく、切ない旅でした。

 なぜあれほどまでに苦しかったのか。いまならその理由がわかります。私は、からだを無視して、完全に頭だけで答えを追い求めていたのです。どんなに真理めいたお話を聞いても、頭だけの理解では、私の抱える不安感を解消することはできませんでした。まったくもって、安心感が得られなかったのです。

 そう、私がほんとうに求めていたのは、真理そのものというより、真理の先にある、究極的な安心感だったのでした。本来的な「いのち」のあり方に触れることができれば、揺るぎない安心感の中で生きていくことができるだろう。そう考えて、私は探求を始めたのです。

 その考え自体は、決して間違っていなかったと思います。しかし、私は、肝心な部分を見落としていました。

「安心感というものは、からだ全体で感じるものであり、頭で考えて得られるものではない!」 

 その、当たり前すぎるほど当たり前な、シンプルな事実に目が見開かされたとき、私は、非常に大きなショックを受け、これまでの自分のあり方を、深く深く反省しました。と同時に、強く誓ったのです。

「頭でっかちな旅はもう終わり! これからは、からだをまるごと使って、本来的ないのちのあり方を探っていこう!」

 この決意こそが、現在の私の活動の第一歩でした。

「安心感」というキーワードが見つかったことで、私の求道生活は、非常にシンプルなものになりました。自分のおなか(丹田)のあたりに、心地よい感覚、詳しく言えば「あたたかくて、やわらかくて、ひろがっていく」ような安心感があるとき、自分は、本来的な「いのち」のあり方、その感触を味わっているのだと考え、その体感をできるだけ丁寧に言葉に置き換えて、「さとり」の理解を深めていく。そういうやり方に変更したのです。
 
 言葉(頭での理解)だけを頼りに「いのち」のあり方を探るのではなく、はじめに体感があって、その感覚を、先人の遺した言葉を参考にしつつ、しっかりとした知識に置き換えることで、「いのち」そのものの感触を深く味わっていく……。いままでとは真逆のやり方でしたが、これが、私には、ものすごくしっくりきたのでした。
 
 からだというのは、いつだって「いま」に存在しています。からだは、おなか(丹田)を中心に、常に「いま」を感じ続けています。一方、頭は、いつだって、過去や未来のことを考えています。

 それが良いとか悪いとか言いたいわけではありません。からだにはからだの役割が、頭には頭の役割があるというだけです。しかし、からだの存在を無視して、頭だけの世界に閉じこもってしまうと、過去への後悔や、未来への心配に、あっという間にこころを乗っ取られてしまいます。
 
 逆に言えば、体感をアンカー(錨)にして、「いま」という時にしっかりと足を着けることができたら、その瞬間に、存在そのものからくる不安感は薄まり、大きな安心感に包まれていきます。その安心感こそが、「いのち」の感覚であり、仏と(あるいは神と)「ともにある」感覚なのだと確信しています。私が現在シェアしている瞑想法は、その確信をベースに組み立てられています。
 
 仏教をはじめとする、ありとあらゆる本質的な知恵(智慧)は、すべて、本来的な「いのち」のあり方を説いています。そして、「いのち」とは、頭だけでなく、からだまるごとで感じるものです。
 
 いま必要とされているのは、知識を知識としてただ伝えるだけの無味乾燥な言葉でなく、「いのち」そのもののあり方を指し示すような、体感をともなった、「生」の言葉たちなのではないでしょうか。私は、そう考えます。
 
 おなか(丹田)の感覚をじっくりと味わいながら、「探求迷子」になっていた過去の自分にも届くような言葉を、私は、今日も探り続けています。(了)

 

インド滞在中も、できる限り、
「ラジオ瞑想」を配信したいと思います!
日本時間22時頃開始(瞑想30分、トーク10分)です。

配信できない日は、事前にツイッターで告知しますので、
YouTubeの録音で「自習」をおたのしみくださいませ◎