【空海】それ禿(かむろ)なる樹、定(さだ)んで禿なるにあらず。春に遇うときはすなわち栄え華さく。

2014年5月14日
イラスト:nihhiイラスト:nihhi

赤や黄色や茶色など、無数の色に染まった葉が、一枚、また一枚と枝を離れていく様に一抹のさみしさを覚えるこの頃ですが、いざ本格的に冬がやって来て、潔く丸裸となった木々の姿を見上げてみれば、毎年、いっそ清々しいような気分になったりするのですよね。

この、どこか晴れ晴れとした不思議な気持ちは、なにもない枝の先に、いまだ見ぬ春のにぎわいを信じている、そんなこころのはたらきによって生じているのかもしれません。

枯れ枝の先は、まったき「無」に見えて、実はそこには無数の「有」がうごめいています。いや、まったき「無」だからこそ、それはそのまま、ありとあらゆる「有」にもなれる……のかもしれません。

無数のいのちの母体としての、たったひとつのほんとうのいのち。

空海さんが開いた真言宗において最高仏とされる大日如来は、もしかしたら、この「ほんとうのいのち」の象徴なのかもしれない……。

枯れ枝の先には、大日如来が……!

いや、まっさらな目をもって眺めてみれば、きっと、枯れ枝の先だけじゃなく、幹にも、根にも、土にも、雨にも、ありとあらゆるものすべてにも、「仏」のはたらきが感じられるのでしょう。

晩秋の風の中に、次の季節、その次の季節、またその次の季節を同時に感じながら、そんなことを思ったのでした。

「ほぼ週刊彼岸寺門前だより」2015年11月29日発行号より転載)