【覚鑁】毘盧と弥陀は同体の異名、 極楽と密厳は名異にして一処なり。

2014年5月14日
イラスト:nihhiイラスト:nihhi

今回は、平安時代の真言僧、興教大師・覚鑁(かくばん)さんのことばを選びました。真言宗中興の祖で、「新義」と呼ばれる教学を確立されたことで有名なお坊さんです。

覚鑁さんは、「大日如来と阿弥陀如来は、同体の異名である」との説を展開されました。そうは言っても、覚鑁さんはあくまで真言宗のお坊さんではありますので、「大日の体の上に弥陀の相を現ず」という風に書かれていますが、それでも、やっぱり、ちょっとびっくりしてしまうようなご意見ですよね。

しかしながら、「仏教」というものは、それ自体が、そもそも、「ほんとうのこと」を伝えるための方便でしかない、という事実に思いをいたしてみれば、覚鑁さんのおっしゃっていることも、割合すんなりとうなずけるようなところはあるのではないでしょうか。

仏教には「指月(しげつ)のたとえ」というお話があります。「ほんとうのこと」(=月)というのは、本来、色も形も匂いもないものであって、それゆえに、人間の力でそれそのものを表現することは、絶対にできない。人間にゆるされているのは、「方便」(=指)でもって、「ほんとうのこと」(=月)の浮かぶ方向を示すことだけである……という教えです。(※ここでは「方便」とは、「手段」や「手立て」という意味で使っております。)

「方便」は、たとえば、「経典」であったり、「仏像」であったり、坐禅や念仏といった「行」であったり、あるいは、大日如来や阿弥陀如来といった「尊名」であったり……するのだと思います。

「方便」は、それ自体、とてもありがたいものです。色も形も匂いもない「ほんとうのこと」をなんとか指し示そうと力を尽くされた先人方の、尊く、偉大な遺産です。ただ、「方便」そのものにとらわれ過ぎてしまうと、その先にあるはずの「ほんとうのこと」には目が届かなくなってしまう……。これでは本末転倒ですよね。

各宗教、各宗派、それぞれ違った「指」の形をしていても、それが最終的に指し示しているものは、実はたったひとつの「月」なのだ、と……。「月」の側から見れば、それぞれの「指」は、意味合いにおいては、まったく同じものであるのだ、と……。そのことは、いつだって大切にこころにおいておかなくてはいけないな、と、自戒を込めて思うのです。

「ほぼ週刊彼岸寺門前だより」2016年1月24日発行号より転載)