【抜隊】耳に声をきき響を知る主は、さて是れ何物ぞ

2014年5月14日
イラスト:nihhiイラスト:nihhi

今回は、南北朝時代の抜隊得勝(ばっすいとくしょう)禅師のことばを選びました。臨済宗向嶽寺派を開かれたお坊さんです。

「耳に声を聴いて、響きを知るものの正体は、さて、いったい誰(何)なのでしょう?」

こう問いかけられたら、多くの方は、ほとんどなんの疑いもなく、即座に、「自分」であると答えてしまうのではないでしょうか。でも、ここで、少し立ち止まって考えてみましょう。私たちは、ほんとうに、自分の力で、なにかを聞いたり、見たり、嗅いだり……しているのでしょうか。ほんとうは、すべて、自分の意志とはまったく無関係に、ただ、起こっていることだと言うことはできないでしょうか。

ほんとうのところ、「聞くという経験」「見るという経験」「嗅ぐという経験」は、いまここにおいて、完全に、完璧に、自動的に起こってきているのです。その証拠に、電話が鳴ったらその音が自動的に聞こえてくるし、誰かがふいに自分の目の前を横切ったらその姿が自動的に見えてきます。そこに私たちの「聞こう」「見よう」といった意志は、実は、1ミリだって存在していないのではないでしょうか。これって、考えてみればみるほど驚異的なことだと思うのです。

そうなってくると、「聞くという経験」「見るという経験」「嗅ぐという経験」それ自体を「知る」正体は……? 事実、この自分以外のなにか、と言わざるを得ないものになってきますよね。

この驚きや不思議さやわからなさに、思い切って我が身を浸してみたとき……まったくあたらしい世界、禅的な世界、もっと言えば「仏」の世界が、生々しく立ちあらわれてくるのかもしれませんね。そんなことを、思うともなく思うのです。

「ほぼ週刊彼岸寺門前だより」2016年2月7日発行号より転載)