【親鸞】この如来微塵世界にみちみちてまします。すなはち一切群生海の心にみちたまへるなり。

2014年5月14日
イラスト:nihhiイラスト:nihhi

「(阿弥陀)仏は世界のどんなところにも満ち満ちている。すなわち、生きとし生けるものの上にも、仏はかならず満ちているのだ」といったような意味になるでしょうか。

この親鸞聖人のことばを受け取って、私は、古くから伝わる「波と海」のたとえを思い浮かべました。海の表面には無数の波が浮かんでいます。高い波、低い波、荒々しい波、穏やかな波……などなど、ひとつひとつの波にはそれぞれ個性があるけれど、どれもみんな、ほんとうのところ、海そのものであることには変わりはない、というお話です。

この「波」を「人間」に、「海」を「仏」に、それぞれ置き換えてみると、仏教の言わんとしていることが、立体的に浮かび上がってくるような気がするのです。

仏教では、すべては縁によって起こる、と説明されます。つまり、私たち人間は、縁によって、いかなる個性もふるまいも引き受けざるを得ない存在である、ということです。

しかしながら、その事実を逆から言えば、どんな形(=波)をもってこの世に存在していたとしても、すべては広大なご縁のネットワーク(=海)の中にあるのだ、と。私たち人間(=波)は、この身そのままで、間違いなく仏(=海)であるのだ、と。だから、ただただ、安心していて良いのだ、と……。そんな風に受け取ることはできないでしょうか。

そうは言っても、「この未熟な私が仏だって? そんなはずないよ!」と思ってしまいますよね。でも、そのちっぽけな自分の思いすら、すべて、「波」としての「海=仏」のあらわれであるとしたら……? 「降参(サレンダー)」というのは、きっと、その事実を受け止めきってしまったときに、まったく同時に、「向こう側」から、やってくるものなのでしょうね。

もう、ほんとうに、「南無阿弥陀仏」しかないのだなあ、と……。

南無阿弥陀仏

「ほぼ週刊彼岸寺門前だより」2016年2月14日発行号より転載)