【一遍】地獄をおそるる心をも捨て、極楽を願ふ心をも捨て、又諸宗の悟りをも捨て

2014年5月14日
イラスト:nihhiイラスト:nihhi

今回は時宗の開祖である一遍上人のことばを選んでみました。さすが、「捨聖」の異名を持つ一遍さん、徹底した「捨て」の精神には圧倒されるばかりです。「地獄」も「極楽」も「さとり」をも捨てろ、だなんて……。

私、小出は、現在、彼岸寺にて『ひらけ! さとり!』http://www.higan.net/satori/というタイトルの連載を担当させていただいておりますが、いままでにインタビューさせていただいた数名のお坊さん方は、皆一様に、「“さとり”なんて、どこにもありませんよ」といったようなことを笑いながらおっしゃるのです。はじめのうちはそれをいぶかしく思っていた私でしたが、(だって、そんなことを言われてしまったら、そもそも企画が成り立ちません!笑)最近になって、ようやく、そのことばの意味するところが、少しずつ、理解できてきたような気がするのです。

私がお話をお伺いさせていただいたお坊さん方は、おそらく、「“さとり”を体験する“個人”なんかどこにもいない」といった意味で、「“さとり”なんてどこにもない」とおっしゃったのではないでしょうか。逆に言えば、「なにかを体験する主体としての“個人”が消えてしまうこと」、あるいは「“個人”の不在性を完全に見抜いた上で生きていくこと」をもって、「さとり」と呼ぶのではないかな、と。

そうなってくると、冒頭の一遍上人のことばは、完全に「さとり」の立場からのもの、と言うことができるのではないでしょうか。一遍さんは、「さとり」への道筋として、「地獄も、極楽も、さとりをも捨てよ」とおっしゃっているわけではなくて、(つまり、「こうすればさとれますよ」という意味で「捨て」を推奨しているわけではなくて、)ただただ、そこを生きる人間として、意図を捨て去ったところから、「地獄も、極楽も、さとりも存在しない。ここには、それを体験する“個人”がそもそもいないのだから」とおっしゃったに過ぎないのではないかな、と……。

意図のないことばに意味なんかあるの!? と、修行の足りない私なんかは、正直、むずむずしちゃって仕方ないのですが、きっと一遍さんは、「意味を求める心をも捨てよ」と、笑っておっしゃるのでしょうね。

……降参です。

南無阿弥陀仏

「ほぼ週刊彼岸寺門前だより」2016年2月28日発行号より転載)