【親鸞】罪障功徳の体となる こほりとみづのごとくにて こほりおほきにみづおほし さはりおほきに徳おほし

2014年5月14日
イラスト:nihhiイラスト:nihhi

今回のことばは、親鸞聖人の『高僧和讃』という書物からピックアップしてみました。

罪障(煩悩)は功徳の本体である。氷の量が多ければ多いほど、それが溶けたときの水の量は多くなるように、煩悩の自覚が大きければ大きいほど、それがゆるされたときの安心も大きくなるのだ。……といったような意味になるでしょうか。

大海を漂う流氷は、それ単体としていきなり出現したわけではありません。もともと海水だったものの一部が、冷えて固まって氷になるのです。煩悩だってそれと同じで、縁によって、どうしようもなくあらわれ出てしまうものです。しかし、春になれば流氷は大海へと溶けていくように、縁によって生じた煩悩だって、また、かならず、縁の大海の中へと還っていくのです。

煩悩は、決して固定されたものではなくて、果てしなく巨大な縁という名のダイナミズムの中の、一瞬のあらわれに過ぎない。煩悩に翻弄される自分自身もまた然り……。

自分のほんとうの姿は、氷ではなく水である。

そのことに気づくことさえできたら、「煩悩は煩悩としてあっていい」「まったく問題ない」と、笑って言えるようになるのではないでしょうか。それこそが究極の救いであり、ゆるしであり、そして、そこにこそほんとうの安心が広がっているように、私なんかは思うのです。

「ほぼ週刊彼岸寺門前だより」2016年4月10日発行号より転載)