【大日経】いかんが菩提とならば、 いわく、実の如く自心を知るなり

2014年5月14日
イラスト:nihhiイラスト:nihhi

今回のことばは、真言密教の根本経典とされる『大日経』の一節です。「さとりとはなにか? ありのままに自分のこころを知ることである」といったような意味になるでしょうか。この思想は「如実知自心(にょじつちじしん)」ということばでも表現されるようです。

ここでのポイントは、単に自分の心を知る、というのではなくて、「ありのままの」それを知る、というところにあるのだと思います。

虚心坦懐に見つめていけば、私たちのこころには、日々、さまざまなものが浮かび上がってくることに気づきます。よろこびややさしさなどのあたたかな思いが溢れることもあれば、怒りや嘆きや憎しみなど、決して好ましいとは言えないような感情に支配されてしまうことだってたくさんあるでしょう。

しかし、どんな思いであれ、それを選んでいるのは、ほんとうに「自分のこころ」なのでしょうか? 心が個別の意志を持っているのなら、自分にとって心地よい感情ばかりを浮かべて、不快な感情は排除しようとするのがふつうなのではないでしょうか? ……でも、現実にはそのようにはなっていないですよね。それならば、「自分のこころ」のほかに、すべてをそのようにさせている「なにか」があるのだと、考えざるを得なくなってくるのではないでしょうか。

「すべて大日如来というはたらきの中にある」というのが真言密教の思想です。すべてというのは、文字通り「すべて」です。つまり、その中には、私たちのこころのはたらきも含まれているのです。

あたたかな感情も、おぞましい感情も、すべて、まぎれもなく、仏のあらわれなのだ――
そのことを理屈を超えたところから理解した瞬間が、そのまま「さとり」の瞬間なのかもしれませんね。そして、それは、本来誰にだって可能なことなのだと思います。だって、私たちひとりひとりという個別のあらわれは、すべて、すでに、仏のはたらきの中にあるのだから。

「ほぼ週刊彼岸寺門前だより」2016年4月24日発行号より転載)