【浅原才市】迷いが迷いに居るのと 法が迷いに居るのとは 違いがしております

2014年5月14日
イラスト:nihhiイラスト:nihhi

今回は、江戸時代から昭和にかけて生きた妙好人(浄土教の篤信者)、浅原才市(さいち)さんのことばを選びました。

才市さんは、「迷い」にも二種類あるとおっしゃいます。ひとつは、「迷い」というものを絶対的な存在として考える場合。もうひとつは、「迷い」というのは、広大な縁の中で起こってくる相対的な存在であることを深く知っている場合。それはそのまま、「自分」という存在を、独立したものとして考えるか、縁起の中にあるものとして見るかにつながっていくと思います。

自分ひとり、宇宙の中のいずれとも切り離されて、独立して存在していると考えると、心細くてたまらなくなります。しかし、広大なご縁のネットワークの中に生かされている自分を、理屈を超えたところから深く認識できると、どうしようもない不安感は、どっしりとした安心感にとって代わられるでしょう。

本来的なつながりという安心感の中にあると、「迷い」さえも問題にはならない。それすら縁の中で生じたものなのだから。それすら、まぎれもなく仏の光明の中にあるのだから――

才市さんのことばからは、このような力みのない朗らかな心境が伝わってくるように思います。否定するもののない世界を、彼は、間違いなく、生きていらっしゃったのだろうな、と。

南無阿弥陀仏

「ほぼ週刊彼岸寺門前だより」2016年5月1日発行号より転載)