「となえる」即「聞こえる」

2016年11月17日

おはようございます。小出遥子です。

今日は(今日も?)念仏について書きます。

私は、いつの間にか、「念仏者」になっていました。

きっかけは、もう、まったく思い出せません。

でも、気がついたときには、
常に(ほんとうに「常に」!)念仏を「となえている」……というか、
常に念仏が「聞こえている」感じの日々を送っていました。

いま、この瞬間も、もちろん、聞こえています。

そんな状態なので、
念仏の仕組みを「解明」しよう! とか、念仏を「理解」しよう! とか、
そういったエネルギーはほとんど湧いてこないのですが、
先日、ふと、「あ、念仏ってこういうこと?」とひらめくようなことがあったので、
野暮であることは重々承知の上で、思い切って、書いてみたいと思います。

「南無阿弥陀仏」って、まあ、「となえる」ものだと思われていますよね。
自分が、自分の意志をもって、自分の口で、となえるものだ、と。

うん。
それは、それで、ひとまずいいんです。

で、大事なのはここからで。

「南無阿弥陀仏」って、口でとなえますよね。
そうしたら、それとまったく同時に、
「南無阿弥陀仏」って、耳に入ってきますよね。

これ、まったく同時ですよね。
「即」ですよね。
一切のタイムラグが、ないですよね。

ここが、いちばんのポイントなんじゃないかと思うんです。

「となえる」の方は、さっきも書いたけれど、
自分の意志によってなされる行為(っぽい)ですよね。

でも、「聞こえる」は?
そこに、自分の意志、ほんとうにありますか?

どうかな?

不思議だと思いませんか?

「聞こう」と思う間もなく、
すでに「聞こえる」ということが起きていた。
しかも、「となえる」と同時に起きていた。

この一瞬の出来事の中に、なにかをしている「自分」はいたかな?

ほんとうにいたかな?

そこを吟味していく中で、
となえる私も、聞く私も、ひとつにとけて消えていく……
ということが起こってくるのかもしれない。

そういうメカニズムになっているんじゃないかなあ。

まあ、「吟味しよう」と思うまでもなく、
とけるときは、一瞬なのだと思いますけれどね。

うん。やっぱりこういう説明は野暮だな(笑)。
でも、またやると思います。
お付き合いいただければ……。

 

よい一日をお過ごしください◎