太陽の塔

2014年5月22日

瞑想が毎朝の習慣となって久しい。ほとんど自己流だが3年以上続けている。瞑想ができなかった日はどうも一日調子が出ない……なんてことを思うぐらいに、もはや日課となってしまった。

 

とは言っても、まだまだ修行は足りていなくて、疲れて途中で眠くなることもあるし、ぜんぜん集中できなくて、「ただ考え事してただけだったな~」ってこともある。(でもそれもすべて意味があってのことらしい。「瞑想中に起こることは、すべてカルマの解消につながっているのです。寝てしまったような気がするときにもカルマはちゃんと解消されていますから安心してください」って、タイのとある瞑想の大家もおっしゃっていたし……ってアヤシイですね、すみません)

 

そんな私でも、ほんの時折、「ああ、いい瞑想ができたなあ」と実感できるような日があって、そんなときには、瞑想中、自分が太陽の塔となって大宇宙(これもまたアヤシイ)に突っ立っているような気分になるのだ。そう、大阪の万博公園に立つ、岡本太郎作のアレである。あの、見る者の心をかき乱さずにはおかない、巨大で、不気味で、「爆発だ!」の、アレである。私はアレが大好きなのだ。

 

太陽の塔には3つの顔がある。てっぺんについているのが未来を表す「黄金の顔」、おなかの辺りについているのが現在を表す「太陽の顔」、背面に描かれているのが過去を表す「黒い太陽」。(実は「地底の太陽」なる4つ目の顔もあったらしいけれど、現在行方不明中だそうで……いつか対面を果たしたいものです。)

 

で、私は、瞑想中、太陽の塔と一体となって、おなかについた「太陽の顔」を自分の本体として感じているんですね。そこにこそ本当の自分がいるような、それ以外の「顔」はすべて見せかけの付属品であるような……そんな感覚。

 

おなかのあたりで、全宇宙と一体になって、ただただじっと「いま」を見つめている――

 

……あれ、またアヤシイこと書きました? しかし、実際、そのような状態になると、「いま」しか見えなくなるのです。ただ、「いま」。「いま」しかなくなる。過去も未来も存在しないんだ、自分が勝手に作り上げた幻想に過ぎないんだ……。「いま」しかない状態になって、はじめてそのことがわかるのです。

 

「いま」を感じるのは、頭じゃない。背中でもない。身体の中心……そう、「太陽の顔」があるあたりだ。それを人によっては「肚」とか「丹田」とか呼ぶのだろう。「いま」には、すべてがあって、同時にまた、すべてがない。すべてがないからこそ、すべてがある世界。「いま」こそが、本当の世界なんだな、と思う。そこ以外に本当の世界なんてないんだな、と思う。

 

色即是空 空即是色

 

太郎さんがなにを思って太陽の塔を創作されたのかはわからないけれど、真ん中にある顔が「現在」を表す、っていうのは、それこそ肚にストンと落ちるような、本心から納得できるような話である。未来は先を見ようとする心(頭)が見せたまぼろし。過去は後ろを振り返る心(背中)が見せたまぼろし。いずれも本体(=おなか)とはズレたところに位置している。「いま」には希望も絶望もない。ただ「いま」があるだけ。まぼろしの世界に意識を逃避させることは簡単だし、はっきり言って楽ちんだ。でも、私は、太陽の塔のように、大地にどっしり足をつけて、いつだってまっすぐに「いま」を見つめていたいと思う。「いま」にしか救いはないし、本当のよろこびもないと思うから。……ものすごく難しいんですけどね。