南無阿弥陀仏

2014年5月24日

先日、東京・増上寺で行われた、僧侶の、僧侶による、人民のための(?)寺社フェス・「向源」なるマニアックなイベントに出かけてきた。これがもう楽しくて楽しくて! 仏教を身近に感じられる、素晴らしいイベントだった。主催者の方々、お疲れさまでした。そしてありがとうございました。この場をかりてお礼を……。で、この「向源」、写経体験、坐禅体験、お守り作りワークショップなど、興味深い催しが目白押しだったのだが、私が体験したのは、浄土宗東京教区青年会による「念仏礼拝ワークショップ」。約一時間、薄暗い畳の部屋で、お坊さんの丁寧な手ほどきのもと、30名ほどの参加者と一緒に、ひたすらに木魚を叩いて「南無阿弥陀仏」をとなえ、五体投地を繰り返した。

 

はじめのうちは、その光景のあまりのシュールさに込み上げる笑いを抑えるのに必死だったり、五体投地のたびに大きく開いたワンピースの胸元からお見苦しい何かがポロリしやしないかと気が気じゃなかったり、なんにも悪いことなんかしてないのにひたすらにバチで叩かれ続けるだけの木魚の一生に涙を禁じ得なかったり……と、まあ、なかなか集中できたものではなかったのだが、ある瞬間、ふいにスイッチが入ったのだった。いわゆる(?)「念仏ハイ」ってやつが訪れたのである。

 

南無阿弥陀仏をとなえ、五体投地を繰り返すいまが、ものすごく自然なこととして感じられてくるような……。この瞬間、この空間以外に世界など存在しないといった気分になるような……。「南無阿弥陀仏」をとなえたり、五体投地を繰り返したりしているのは、もはや「自分」という存在ではないといった気分になるような……。「自分」という主体がまったく消えてしまって、まったくからっぽになってしまって、もっと大きなものと一体となって、そこにあるのは、ただひたすらに、「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」……

 

「となふれば仏も我もなかりけり南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」(一遍上人)

 

……一遍! 超わかるよ一遍! あんたうまいこと言う! 最高だ! と鎌倉時代の高僧に向かって馴れ馴れしくも呼びかけて、その肩をばしばし叩きたくなってしまうほどに、上記の句が身にしみてわかるような、不思議で貴重な体験であった。一緒に体験した妹も「一瞬、トランスっぽくなった」と言っていた。仏も我もなかりけり。念仏の意義を見たり! な、素敵なワークショップだった。(次の日、全身筋肉痛でしたけど……。「五体投地で……」と言ったら職場の人に怪訝な顔されましたけど……。そりゃそうだ。)

 

末法の世に念仏が大流行したのは、「来世に極楽に往生せんがため」だったのだろうが、そしてそれはその時代には必然だったのだと思うが、現代に生きる我々が念仏をとなえるのは、「いまを生きるため」という目的が大きいと思う。いま以外に世界などないのだ、過去も未来も幻想なのだ、そのことを知るための「南無阿弥陀仏」。それを知って、いま、ここに足を着けて、はじめて、本当の「生」がはじまっていくのだと思う。流行りのホ・オポノポノなんかも、これと同じ原理なんじゃないかなあ、と仮定している。

 

「念仏とは、仏を想うことです。念仏の念という字は、今の心と書きます。現時点でしていることに心を置き、そこに仏を感ずるなら、それこそが最良の念仏となります。」

(町田宗鳳著『法然・愚に還る喜び ―死を超えて生きる―』2010年 NHK出版)

 

いましていることに心を置く……。なにもひたすらに念仏をとなえたり、「ありがとうごめんなさいゆるしてくださいあいしています」を繰り返したりしなくても、いや、これらは確かにものすごくすぐれた手段なのだが(私もことあるごとに南無阿弥陀仏やらあいしていますやら繰り返している……)ただ、いま目の前にあることにひたすらに心を尽くすだけでも、十分に、というかそれこそが現代における「念仏」になるのだ。瞑想は行為ではなく状態、とはよく聞く話だが、念仏も行為ではなく状態なのだ。集中して集中して集中して……集中している「自分」すら消えたところに、「いま」という世界が広がっているのだろう。そしてその「いま」という世界こそが、「仏」の世界なのだろう。そして私たちは、仏の世界を、現世で、この肉体を持ったままで、生きることだってできるのだ。私はそこを生きていきたいなあ、と思う。

 

南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。ちーん。合掌。