本当のやさしさって?

2014年6月3日

四国八十八箇所を徒歩で巡礼するというのは、普段まったく運動をしない私にとって、肉体的にものすごくハードなことで、時折、もう本当に「ここから一歩も動けません……」と泣き出したくなるほどの暴力的な痛みに襲われたりする。実際に目の際からじわじわと涙をにじませてみたりすることだって、正直(結構な頻度で)ある。それでもこれまでなんとか歩き続けることができているのは、ひとえに、道端の木々や花々の励ましあってのことである。

 

生い繁った緑の葉っぱが私の肌を直射日光から守ってくれたり、心地よく吹き渡る風の存在を触覚だけでなく視覚や聴覚をも使って伝えてくれたり、ふんだんに酸素を放って私の荒い呼吸をなだめてくれたり、どっしりとしたその存在感をもって「いま」に私の心を戻してくれたり……。木々にはマイナスを包み込んでくれる癒しのエネルギーがある。対して花々が持つのは前向きな希望のエネルギー。目にも鮮やかな花びらの色彩、それをそよ風に繊細にふるわせる可憐な姿、少女の朗らかで高らかな笑い声が聴こえてきそうな野花の群生地帯には、もうその脇を歩かせてもらうだけで、自分の心にも「ほわっ」「ふわっ」と花が咲いたようになるほどの力がある。あと少しだけがんばってみよう、と素直に思える。

 

南無木々仏……。南無花々仏……。

 

木々や花々のすごいところは、これほどまでに私たちに力を与えてくれているというのに、本人(?)たちは、人間を「癒してあげよう」「励ましてあげよう」なんてことは、おそらく、これっぽっちも思っていないだろうということ。「いまあの場所を歩いているあの人のために葉を繁らせて日陰を作ってやろう」と思ってそうしているわけではない。彼らはただただ自分の根付いた場所で日光を浴び、雨水を吸い上げ、枝を広げ、葉を繁らせ、花を咲かせ……しているだけである。木はただ木をやっている、花はただ花をやっている。その姿にこっちが勝手に癒されたり励まされたりしているだけなのである。

 

ああ、これこそが、「本当の」やさしさかも……。

 

無意識のやさしさには作為がない。当然、押しつけがましさもない。それゆえ、受ける側に気を遣わせることがない。こちらもそれと知らずに力をもらえる。双方向のエネルギーの流れに無理がないのだ。

 

その存在が、その存在そのものとして存在しているとき、そこにはとてつもないエネルギーが生まれる。そのエネルギーは、それ自体が「他を利する」質を持つのだと思う。

 

絵の得意な人が絵を描くとき、歌が得意な人が歌を歌うとき、その根源にある動機に、「他者」が入り込む余地はないだろう。本人たちは、ただ「描きたくて」、「歌いたくて」、それらをやっているはずなのだ。ほとんど、「なにか」に突き動かされるようにしてやっているはずなのだ。その「なにか」は、私たち人間をこの世に送り出したエネルギー、そのものなのだと思う。「作品をもって人々を励ましていきたいから、描きます/歌います」なんていうのは、言ってみれば後付けの理由に過ぎないんじゃなかろうか。どうしようもなくそれをやりたくて、「やりたい」ことを意識する間もなく、ただ、やってしまう。手が動いてしまう。声が出てしまう。そっちが本当なんじゃないかな。そうやって生み出されたものこそが、人の心に、本当の意味での「やさしさ」として、力強く伝わっていくのだと思う。「無私」の心が人を癒すって、こういうことなんじゃないだろうか。

 

実際に目の前に困っている人がいたら、たとえば傷の手当をしてあげる、とか、なにかを食べさせてあげる、とか、話を聞いてあげる、とか、現実的な手助けをすることはもちろん必要だ。でも、相手の心に真実のやさしさを届けるのには、あとはもう、それぞれの人が、それぞれの存在そのものとして、そこにいるだけで良いのだと思う。瞬間瞬間、自分が本来の「自分」からズレないように行動するだけで良いのだと思う。無理に「○○をしてあげよう」なんて思わなくて良いのだと思う。ただただ自分が突き動かされるように「思わずしてしまった」ことを淡々ときわめていけば良いだけなのだと思う。絵や歌じゃなくても、たとえば丁寧にお茶を淹れるとか、道端でゴミを拾うとか、職場ですれ違った人みんなに笑顔で挨拶するとか……。世間がやれと言うから、とか、それが良いこととされているから、とかじゃなくて、ただただ自分が「やりたくて」「思わず」やってしまうようなこと。そこに、その存在の本質があるのだと思う。それを無心でやっているときだけ、「やさしさ」は発露されるのだと思う。

 

すべての存在はみな、「やさしく」作られているのだ。

みな、そのままで、「他を利する」ように作られているのだ。

あの人だって、その人だって、きっと、私だって。

きっと。

 

 

 

四国の田舎道で木々や花々に励まされて、一歩一歩足を進めながら、ふいに、そんなことを思ったのだった。