南無円空仏。南無ウサギ仏。

2014年6月5日

猿、狐、兎の3匹が、山の中で力尽きて倒れているみすぼらしい老人に出逢った。3匹は老人を助けようと考えた。猿は木の実を集め、狐は川から魚を捕り、それぞれ老人に食料として与えた。しかし兎だけは、どんなに苦労しても何も採ってくることができなかった。自分の非力さを嘆いた兎は、何とか老人を助けたいと考えた挙句、猿と狐に頼んで火を焚いてもらい、自らの身を食料として捧げるべく、火の中へ飛び込んだ。

(Wikipedia「月の兎」項目より抜粋)

 

 

 

この話を幼い頃に聞いて、心に深い傷を負ったのは私だけではあるまい。一体なんなのだ、この話は。ウサギが可哀想すぎるではないか。老人も他の2匹の動物も可哀想すぎるではないか。救いがなさすぎるではないか。最後にウサギが月に転生するにしたってひどすぎる。なんでこんな理不尽な話が童話としてまかり通っているのか……。自己犠牲の精神を謳った物語なんてくだらなすぎるし、まっぴらごめんだ! なんて思っていた。……本当に、つい最近まで。

 

私は、なにもわかっていなかったのだ。

 

 

 

一年半ほど前に、東京で大規模な円空展が開催されていた。円空は江戸時代の仏師。全国を行脚しながら、生涯に約12万体もの仏像を彫ったと言われているお坊さんだ。彼の彫った仏さまは、みな、やけにざっくりとした野性味に溢れており、一見して「私にも彫れそう……」なんて思ってしまうほどのド・シンプルな形状をしている。でも、どの仏さまも、強い個性を持ちながら、みな、どことなく笑っているような、やさしい表情をしているのだ。

 

その展覧会には、「三十三観音立像」の名称がつけられた、丸太を細く何等分かしたものの表面にさっと表情をつけただけ、といった風情の仏像が並べて展示されていた。本当は名前の通り33体あったようなのだが、現存するのは31体のみ。残りの2体は、近隣住民に貸し出したきり、戻って来なかったのだそうだ。学芸員さんはこんな風に解説していた。

 

「削られて薬にして飲まれてしまったか、もしくは、飛騨は寒い地方ですからね(その展覧会には、主に岐阜県の円空仏が展示されていた)、薪としてくべられてしまった可能性もありますね。形も、ほら、なんだか薪っぽいですしね……。」

 

一緒に解説を聞いていた人たちは「まあ、仏さまも大変ねえ」などと言って笑っていた。そんな中、私はひとり、涙をこらえるのに必死だった。その時、私の頭の中には、飛騨地方の人々に一瞬の暖を与えるために薪として火にくべられたその一体の円空仏の図が、ものすごくリアルに浮かび上がっていたのだった。

 

鮮やかな橙色の炎に身を焼き尽くされながら、それでも仏さまは微笑んでいた。最後の最後まで、ひどくやさしく、そして、泣けるほどに力強く、微笑んでいたのだ……。

 

一粒目の涙をこぼしてしまった瞬間、私はまったく唐突に、幼い時分に聞いた例のウサギの話を思い出したのだった。そして突如として悟ったのだった。

 

「ああ、あのウサギは、本心から自分の役割を果たしただけだったんだ。それならばきっと、熱くなかったし、痛くなかったし、辛くも、悲しくもなかったんだろうな。ただただやさしい気持ちに包まれていたんだろうな。ウサギはきっと、炎の中で、最後の最後まで、微笑んでいたんだろうな……」

 

 

 

おそらく……ではあるが、そのお話に出てくるウサギは、薪としてくべられた円空仏同様、ブッダ(悟りを開いた存在)そのものだったのだろう。

 

「悟り」は「差」「取り」だという話を聞いたことがある。「差」=「個体間の違い」を一切取り去ったところにある、自分も他人もない世界。たったひとつの、大きないのち。私たちは、ひとり残らず、いまだって、まったく同じ世界を……たったひとつの同じいのちを生きている――

 

ウサギはその世界(いのち)を、自覚をもって生きていたんじゃないだろうか。だからこそ迷わずに火の中に飛び込めたのではないだろうか。彼(もしくは彼女)は、その時、その場で、もっとも必要とされた行動をとったに過ぎない。それがたとえ、肉体の消滅を意味するのだとしても、それでも迷わず、ただ一心に、自分の役割をまっとうした……。

 

だって、本当は、自分も他者もないのだから。他者のために死ぬことは、つまり自分を生かすこと、そのものなのだから。

 

ウサギは本気でそう思っていたに違いない。

 

これは「自己犠牲」なんていうちゃちでケチくさい話なんかじゃなくて……。ただただ他人を生かすことが、まったくのイコールとして、自分を生かすことになる、そんなやさしい世界のお話なのではなかろうか。ブッダ(ウサギ)は、そんな世界を、ただただ生きて、そして、死んでなお生き続けているのではないだろうか。

 

他人のため、は、自分のため。これは決して説教くさい意味じゃなくて、まったくもってそのまんまの意味としての、まっすぐすぎるほどにまっすぐな言葉だと思うのだ。他人も自分もない「差」「取り」の世界では、他人を生かすことは、そのまんま、自分を生かすことになるのだ。そして、すべての存在は、本当はそんな世界を生きているのではないだろうか。ただ、見ないように、気づかないようにしているだけで……。

 

ウサギは、身をもって、私たち人間にそのことを気づかせようとしてくれたのではなかろうか。

 

 

 

ただ、まあ、なにも死ぬことはないでしょうウサギちゃんよ、とは思いますけどね。物語はいつだって極端だ。でも極端にしないことには、こんな「荒唐無稽」な「教訓」は伝わりづらいのだろう。それでも、結局、その本来の意味が心に伝わってくるまでに、私には二十年以上の歳月が必要でしたけどね。そしてこの解釈だって完全に個人の勝手な解釈ですけどね! でも、橙色の炎に包まれた一体の円空仏と一羽のウサギの最後の微笑みは、いま、この瞬間も、確かに、私の心をやさしく暖めてくれているような気がするのだ。円空仏もウサギも、死んでなお、私の中で生き続けているような気がするのだ。それは本当のことなのだ。

 

 

 

南無円空仏。南無ウサギ仏。