「前世」とか「因果応報」とか。(その1)

2014年6月10日

たとえば、生後わずか7日でこの世を去った赤ん坊がいるとする。その赤ん坊に対して「前世で悪行を働いたからだ。因果応報だ」なんてことを言う人がいたら、私はそいつを思いっきりぶん殴ることだろう。だってそんなケチむごい話があっていいわけがないじゃないか。

 

そもそも「前世」ってなんだ? って話で。私はもはや「時間なんて本当は存在していないんじゃ……?」と思っているので(というかほとんど確信している。だって「過去」も「未来」も頭の中にしかない。あるのは「いま」だけだから)、よく言われる「私は○○の生まれ変わりなの」とかいう話も「ふう~ん……ストーリーとしては面白いよね……」ぐらいの態度で聞いている。いや、私もね、前世療法関係の本読んで感動しちゃうクチですよ。大野百合子さんのファンですよ。お金払って、前世、見てもらったことだってありますよ(大野さんとは違う人ですけど)。そこでそれなりに納得がいくような話も聞きましたよ。「ああ! それでいま、こんなことになってるんだ!」って笑っちゃうぐらい当てはまっている部分もありましたよ。それでかなり楽になった部分はありましたよ。でもね、あれってきっと、私の潜在意識の中にあったものを「前世」という「物語」として提示してもらっただけなんだと思う。人はなぜフィクションと分かりながら小説や映画に癒されるのか。その人の心の中にあった言葉にならないものを、「物語」が提示してくれるからだ。それを自分の「外側」のものとして認識して、「いま」の自分の立場から眺めたとき、はじめてもやもやから解放されるのだ。解放は癒しを生む。それと同じことなんだと思う。

 

「前世(らしきもの)」の記憶はあるとしても、まったく個別の記憶なんてものはないんじゃないかな~。同じ記憶を共有している人が複数いてもおかしくないと思う。だって全部は「いま」「ここ」に、「同時」に存在しているのだから。全部が「同時」で、全部が「ひとつ」なら、「人類共通の記憶」的なものだってあるはずなわけで(それを潜在意識と呼ぶのではないのでしょうか)、「前世を見た!」と言う人たちは、そこにアクセスしているのかなあ、と。んんん……こっちの方がアヤシイお話か!? ……いや! 私、「前世」っていう「物語」は大好きなんですよ! ぜんぜん否定はしないです。だって面白いもんね、お話として。励まされること、たくさんあります。でも「物語」は「物語」であり、それ以上でも以下でもないと思うのです。

 

 

 

……「因果応報」に話を戻そう。ここで一応、辞書的な意味を貼り付けておきます。

 

[仏]過去における善悪の業(ごう)に応じて現在における幸不幸の果報を生じ、現在の業に応じて未来の果報を生ずること。

(広辞苑より)

 

ここに「前世」とか「来世」とかの話を持ち出してくると、「いや~それは違うでしょう、だって時間なんて物語でしか(以下略)」といった反応を示してしまう私であるが、こと「現世」においては、そして「意識」を持って生きている人間にとっては、やはりこの言葉は真実を表していると思う。

 

現世では、「悪いこと」をしたら、その分だけどこかで必ず帳尻は合わせないといけない。でもこれってよく言われるように「仏さまにバチをあてられたんだ……」とかそういう話ではないと思う。仏や神という自分とはまったく別個の存在がいて、どこか高いところからじっとこちらを監視していて、「あやつ、道端に落ちていた500円玉をちょろまかしたな。500円分の罰を与えよう。さあ、いますぐ犬のフンを踏みたまえ。出でよ、犬のフン!」とかなんとか言って神仏パワーを地上に送って、その人の一歩先に犬のフンを出現させる……なんてことは、お話としては面白いですけど(またこれか)、実際、ありえないと思うのです。じゃあ誰が罰を与えているんだ、って言ったら、この、自分。自分自身に他ならないと思うのだ。

 

「やばい、悪いことしちゃった……」っていう自分の中の意識が、「バチがあたったんだ……」的な結末まで、おのれをゆるやかに運んでいくのだ。「こんなに悪いことをした自分には、悪いことが待っていて当然だ」という信念を生きはじめて、結果「悪いこと」を自分で起こしてしまうのだ。

 

なぜそう思うのか、その根拠は……長くなってきたのでまた明日書きます!(すみません!)

 

(その2に続きます)