「前世」とか「因果応報」とか。(その2)

2014年6月11日

昨日の続きです!

「悪いこと」をした人にバチを当てるのは神仏なんかじゃない、その人自身だ、っていう話ですね。

 

 

 

「因果応報」と同じような意味の言葉に「自業自得」というものがある。自分の行いの報いを自分が受けること。自分で作った「業(カルマ)」は自分で回収しなければならない……という意味である。この、「自分が」「自分で」ってところが、私はポイントだと思うのだ。

 

……ここで、「業(カルマ)」とはそもそもなんぞや? という話になる。よく聞く言葉だけど、いったいなにを表しているんだ? と……。これ、たぶんいろんな言い方があると思うのだが、まあ、一言で表してしまえば、

 

「業(カルマ)とは、自分が、自分自身にかけた呪いのことである」

 

っていうことだと思うのだ。あくまで、私の解釈ですけど……。

 

で、「業(カルマ)」とセットになっている仏教用語に「法(ダルマ)」っていうのがあって、こっちは「宇宙の真理」とかなんとか訳されているのをよく見るけど、まあ、ぶっちゃけ、なんのことだがよくわかんないです……。でも、「法(ダルマ)」のありかを示してくれるものの存在は感じられて、それはなにかって言うと、私たちひとりひとりに備わっている「良心」。この「良心」に沿った行いっていうのが、そのまま「法(ダルマ)」に沿った行いになるんじゃないかな、と思っている。で、自分の「良心」にそむく、逆らう、抵抗する(ぜんぶ一緒か)……そんな行為が心の葛藤を生んで、結果、「業(カルマ)」=「自分自身への呪い」となるんじゃないのかな、と。

 

ここでもうひとつポイントなのが、「行為」自体が「業(カルマ)」を作るのではなく、「あんなことしちゃいけなかったんだよな、でもやっちゃったな、どうしようかな」という心の葛藤が「業(カルマ)」を生むっていう点。「行為」自体は、いつだってニュートラルなのだ。そこに「善」も「悪」も本当はなくて……。じゃあなにが善悪を判断しているのかって言ったら、おのおのの「良心」だ。自分の「良心」に沿う行為が「善」、そむく行為が「悪」。言ってみれば、ぜんぶ自分で決めているのだ。

 

自分の外側にあるものがどんなに「悪!」と叫んでいても、それが自分の「良心」にそむく行為でなければ、そこに葛藤は生まれないわけだから、「業(カルマ)」にもならない。たとえば、ものすご~~~く地味で保守的な学校に、ものすご~~~く自由な心を持つ女の子が入学してきたとします。彼女は自己表現のひとつとして、まったく自由な気分で(校則にそむいちゃってる自分、パンクだぜ! みたいな、枠組みありきの反抗的な気分は皆無だとして)規定の制服なんかまるで無視して、入学初日にきゃりーぱみゅぱみゅみたいな格好でルンルンと登校しました。当然、先生たちからは大目玉をくらいます。同級生たちからも「なにあいつ」的な視線を向けられます。周りの人々は彼女の行為を「悪」として徹底的に糾弾するでしょう。それでもそれが彼女の「良心」に沿う行動であるのなら、彼女にとってその行為は「善」なのであり、そこに「業(カルマ)」はまったく生まれないはずなのです。彼女は「自分自身への呪い」からまったくもって自由です。

 

これ、逆もまた然りで。周りがどんなに「善」を叫ぼうとも、その行為が自分の「良心」にそむくものであったら、それはその人にとって「悪」なのであり、それは当然「業(カルマ)」につながってしまうのです。兵隊にとられたおじいちゃんたちが、「正義」の名のもとに人を殺した罪悪感に後年になっても苦しめられ続けるのは、それの最たるものですよね……。「呪い」に他なりませんよね……。避けられないことだったのでしょうが、それがまた悲しい話です……。戦争は本当に最悪です……。一刻も早くどこもかしこも平和な世の中が実現されることを祈ってやみません……。というか実現していかなくては、と思います……。

 

……………………。

……………………。

……………………って!

 

どうしよう……。話があっちゃこっちゃ飛びすぎて、自分でもわけわかんなくなってきた……! いや、大丈夫、明日、必ず着地させてみせます! 次回は「じゃあ一回自分にかけちまった呪いはどうやって解けばいいのさ!?」ってことを書いていきますね。カルマの解消の仕方ってことですね。……書けるのか、私? いや、書きます! 定まらない文体で、精一杯書きます!!!

 

ではまた明日。完結編、「乞うご期待!」です……。

 

(その3 完結編に続きます)