「しない」を選ぶ

2014年6月14日

大人数の飲み会に顔を出さないようになってどのぐらいになるだろうか。付き合いの長い気の合う仲間たちとの飲み会は別として、4人以上の会合にはよほどの理由がない限り、最初からお断わりするようにしている。以前はフットワークの軽さで有名だったこの私が(自分で言う)、もう、まったくの別人になってしまったようだ。いや、実際別人になったのだと思う。

 

理由は簡単だ。単純に、疲れるからだ。自分のしたいことが、そこではできないからだ。いや、できないと、私は、どうしたって思ってしまうからだ。

 

私はとにかく「会話」がしたいのだ。誰とだって、できるだけ、一対一でじっくり話をしてみたい。そうしないと本当のその人が見えてこないし、本当の自分も出しづらい。人数が多くなればなるほど、その場の会話の内容は薄くなる。あたりさわりのない話題を並べ、あたりさわりのない笑顔を浮かべて……。

 

そんな自分に疲れてしまった。

 

疲れるし、つまんないな、と思ったのだ。こんなんじゃ、私の求める関係が築けないよ、と。

 

昔はそれでも楽しかった。その場その場で笑っていられればいいじゃん、と思っていた。でも年々むなしくなっていったのだ。ひとり家路をとぼとぼ行くとき、ああ、今日もなにも残らなかったな……。そう思うのがつらくなってきたのだ。さみしくなってきたのだ。

 

お金も時間も体力も無限ではない。それならば私は、気が合いそうな人と、一対一で真剣に向き合って、真剣に話し合いたい。その人が日々なにをどう感じて、どう考えて、なにに興味があって、どんな生活を送っているのか、どんなときに心から笑って、どんなときに涙を流すのか。それが知りたい。

 

そして自分のことも話したい。私という人間が日々なにをどう感じて、どう考えて、なにに興味があって、どんな生活を送っているのか、どんなときに心から笑って、どんなときに涙を流すのか。それを包み隠さずさらけ出したい。

 

そうでもしなきゃ探れない。

 

必死でコミュニケーションをとって、そうして、二人の間に重なる部分を見つけたら、それを大切に深めていきたい。

 

「あ、いまちょっと心が触れ合った? 私たち、いま、同じ風景を見た? そうだったら、うれしいな。」

 

そんな瞬間だけを追い求めていきたい。

 

だってそれだけが私の欲しいものだから。

 

これはわがままなんかじゃないと思う。誰になにを言われようと。

 

 

 

……いや、私もね、大学で謎にガチガチの体育会系のノリを持つ文化系サークルに入っていたんでね、大人数の飲み会という場を盛り上げる術はばっちり身についているんですよ。コンパニオンという名のピエロになろうと思えば、いっくらだってなれるんですよ。

 

ぶっちゃけ、前はそういうの得意だと思ってましたよ。笑いの渦の中心にいること、気持ちいいと思ってましたよ。「自分、結構人気者なんじゃん?」ぐらい思ってましたよ。(恥ずかしい!)

 

でもその「人気」はその場限りで……。完全に、見せかけでした。

 

しかも結構無理してテンション上げてるから、次の日にばっちりガタが来て。「なんであんなこと言っちゃったんだろう……」とか、飲み会での自分の言動を反芻して反省して情緒不安定で。ピエロを演じることを決めたのは自分なのに、いざピエロのレッテルを貼られたりすると本気で落ち込んでみたり。「そんなの私じゃないよ! なんで気づかないの? 気づいてよ!」などと人のせいにして怒ってみたり、泣きじゃくってみたり。ひどいときには、もう、とにかくむなしくて悲しくてさみしくて、一日中ベッドから起き上がれなかったり……。

 

これ、恐ろしいことにぜんぶ実話です……。

 

だって私、本当は、「生とは……」とか「死とは……」とか、そんなことばっかり考えている人間ですよ。完璧に、内向的な人間ですよ。協調性だって実はぜんぜんないですよ。車の免許取ったときも、適性試験の結果として、「協調性の欠如が見られます。道路はあなただけのものではありません」とか書かれた紙を渡されましたよ。大人数でなにかするって、実は超苦手なんですよ。たとえそれが気楽な飲み会という場であっても。

 

なんとなく出来ちゃう感じなんだけど、実は向いていないことっていうのが、人間にはあるのだ。向いていないことっていうのは、平常心でいられないこととイコールなんじゃないかと思っている。でも最初の反応を見逃すと、なかなかそれに気づけないのも事実。人間っていう生き物は、自分自身すら簡単にだましてしまうのね。いや、自分自身だからこそ簡単にだまされてしまうのね……。

 

無理に無理を重ねて、無理に笑って、無理に身を削って、それをまた無理に笑いに変えて。盛り上げているつもりだったけど、実は周りの人たちにもすごく気を遣わせてしまっていたんじゃないかな……。

 

「その人がその人のままでいる」っていうのが、本人にとってもまわりにとってもいいことで。そこからズレた行動をすると、どんどんどんどん変な方向に行ってしまう。

 

良かれと思ってピエロになって、見せかけの「人気」にしがみついていた裏で、実は幾人もの人を傷つけていたのだ。

私の作り笑顔の裏で、たくさんの人が泣いていたのだ。

 

その事実に気付いてしまった瞬間、「大人数での飲み会での賑やかな楽しさ」のない人生を選ぶ決意が、完全に固まった。

そして同時に、自分が自分のままでいられる場を、本気で追求していくことを決意したのだった。

 

 

 

あの日、「しない」という選択肢の方に進んで、本当に良かったと思っている。一度も後悔したことはない。あの頃「楽しさ」だと思っていたものの何十倍ものあたらしいよろこびを、いま、私は、受け取ることができているから。自分の輪郭が、いよいよくっきりしてきたから。それにしたがって、本当の「仲間」が、少しずつ増えてきたから。

 

これも一種の「断捨離」ってやつか……?

 

なるほど、「断捨離」は、自分という存在を探るのに、ものすごく有効なメソッドだと思う。

 

えーと、ここで断っておきたいのですが、これ、あくまで私のケースを書いただけであって、大人数の飲み会に出る人たちを否定しているわけじゃないんですよ。単純に向き不向きの問題です。私はそこに適性がなかったというだけのお話です。大人数の飲み会でも、ちゃんと人間関係を築ける人、私の友人にも何人もいます。私は彼らが大好きです。ただ、私にはできない。その才能がない。それだけのお話です。主語は全部「私」です。

 

社会で生きていれば向いてないことをやらなきゃいけない場面はたくさんある。でも、自分で選べる部分は、できるだけ向いていることだけをして生きていきたい。限りある人生、なんとなく出来ちゃう感じなんだけど、実は向いていないことなんかに惑わされている暇はない。

 

だって、本当に向いていることをしているときは、心の底から楽しいから。

楽しいことをしていれば、周りにもやさしくできるから。

やさしくされた人たちが、さらに周りにやさしくしていって……

いい連鎖が生まれていくように思うから。

そして楽しいことをしていれば、決して人のせいにはしないから。

ぜんぶを自分の責任でやっていけるから。

 

そのなんと清々しいことか。

 

 

 

私は、清々しく生きていきたいのだ。

ただ、それだけです。