「いま」「ここ」「自分」

2014年6月17日

(本当は昨日の続きを書こうと思っていたのですが、大切な友人が、いま、どうしてもこの記事を必要としているような気がしたので、今日はこちらを書きます。カラスのフンから得た大事な教訓はまたあした~!笑)

 

 

 

「いま」「ここ」「自分」

 

この3つは禅の思想を端的に表した言葉であるが、私はなにかに迷ったり惑ったりしたときにこれらをおまじないのように唱えている。そして目をつぶり、深呼吸をして、できるだけ頭をからっぽにする。コツは意識を頭上より少し高いぐらいの位置に持って行くこと。

 

すると、「かつてorいつか」「あちら」「あの人」に移行してしまっていた軸が、すっと戻ってくる感じになる。地に足をつけて、目の前のことに取り組めるようになる。

 

「南無阿弥陀仏」も「ありがとうごめんなさいゆるしてくださいあいしています」もすごく有効だけど、「いま」「ここ」「自分」はさらにダイレクトに「戻してくれる」気がします。「思い出させる」というか。ふわふわそわそわと心が落ち着かないときに、びしっと効きます。

 

 

 

「いま」「ここ」「自分」

 

これね……ものすごく単純だけど、その単純さゆえに、ものすごく誤解も多い言葉たちであるように思うのです。

 

 

 

たとえば「いま」。この「いま」は、過去から未来へと続く一本の直線上にある、このいま、この瞬間、この「現在」を差す言葉ではない。そんなものは頭の中にしか存在しない。そもそも時間なんて存在しないのだから、現在なんてものも存在するわけがないのだ。言うなればずっと「いま」。「いま」しかないのだ。

 

たとえば「ここ」。この「ここ」は、いま自分が立っている、この場所、この地点を差す言葉ではない。だって場所っていうのは時間あってこその概念だから。速度、時間、距離はいつだってセットになっている。時間がないなら距離なんてものも存在できようはずがない。言うなればずっと「ここ」。「ここ」以外ないのだ。

 

たとえば「自分」。この「自分」は、いまここでPCに向かっている、個別の肉体を持った、「この」私のことではない。「私」などそもそも存在しない。だって、本当はぜんぶがひとつなのだから。いや、「ふたつでない」と言った方が正確か。「ひとつ」っていうのは数の世界の言葉だから。数すらもないのだ。「ふたつでない」「不二」の世界。一切の「差」がない世界。「差」の「取」れた世界、つまり「さとり」の世界。その世界には「私」も「あなた」も存在するはずがないのだ。「自分」以外ないのだ。

 

「いま」「ここ」「自分」は、全部、この「ない」だらけの「さとり」の世界を表した言葉であり……。仏教が「無」「無」「無」とくり返し続けているのは、こういうことなんだと思う。すべてがなくて、それゆえにすべてがある世界。

 

 

 

……ってね。これ、本当に言葉にするのは難しいっていうか、むむむ無理! な話なのですが。だって言葉を超えた世界なんだもの。「時間」という概念が消えたとき、同時に全部がなくなっちゃうのだ。「私」も、「あなた」も、「言葉」も、「距離」も、「場所」も、「こちら」も、「あちら」も、「上」も、「下」も、「これ」も、「あれ」も、「それ」も、全部。

 

 

 

それはふとした瞬間に訪れる。

 

爽やかなそよ風に頬をやさしくなでられた瞬間、雨上がりの地面の匂いを思いっきり吸い込んだ瞬間、よく晴れた日に洗濯ものを干し終えて両手を腰に当てた瞬間、夜更けの満月に両目を眩しく射られた瞬間、よく整えられた神殿でまっすぐに手を合わせた瞬間、仏の慈悲深い眼差しに涙を溢れさせた瞬間、仕事の合間においしいお茶で一息入れた瞬間、愛のこもった手料理を食べた瞬間、お風呂にゆったりと全身を沈めた瞬間、愛する人と同じ布団にくるまって眠りに落ちる瞬間……

 

「時間」が消えて、「いま」「ここ」「自分」という名の永遠になる。

 

「他人」との「差」という「幻想」がガサッと落ちた瞬間、そこには一切の分離のない世界がただただ広がっている。そこは明るくもなく、暗くもなく、暑くもなく、寒くもなく、ただただ静かで、ひたすらにやさしくて、圧倒的に安らかで……

 

生きとし生けるもの、みなすべて、本当は、「いま」「ここ」「自分」を知っているはずなのだ。ただ、あまりにも強力な幻想にとらわれ過ぎて、それを信じ切れていないだけで。本当はいつだって「いま」「ここ」「自分」を生きられるのだ――

 

 

 

……話を最初に戻します。「いま」「ここ」「自分」。上に書いたような「アヤシイ」意味じゃなくて、一般的に慣れ親しんだ意味でもってこれらの言葉を考えても、十分に心は落ち着きます。迷ったらこれを判断基準にすれば、少なくとも自分の納得の行く道を選べるようにはなるんじゃないかな。「かつて」や「いつか」や「あちら」や「あの人」を基準にしてしまうと、どんどん本来の自分からズレてしまう。本来の自分で生きるのが、一番楽ちんだし、結局は周りのためにもなるのだ。

 

 

 

「いま」「ここ」「自分」

 

いつだってそれしかないのだと思う。

真実の言葉は、その言霊をもって私たちを力づけてくれる。

 

 

 

 

 

 

 

T子へ。

ぜったいに、大丈夫だよ。