仏さまはどこにいるの?

2014年6月20日

数年前、博物館で、各国の仏像がズラリと並べられた展示を何気なく見ていた。それぞれの仏像は、それぞれの国の人の顔をしていた。インドの仏像はインドの人の顔、中国の仏像は中国の人の顔、カンボジアの仏像はカンボジアの人の顔……。

 

はっとした。

 

「これって、仏さまっていうものは、究極的には自分だっていうことのあらわれなんじゃない……?」

 

ほとんど確信をもってそう思ったのだった。各国の仏像にぐるりを囲まれた状態で、私は、しばらく動くことができなかった。

 

 

 

昔は、「仏さま」という、自分とは別個の存在が、雲の上など、どこか遠い場所にいるのだと思っていた。それで、その分身のようなものが、それぞれのお寺に、仏像として祀られているのだろう、と。

 

実際、当時の私は、「ここの仏像はなんとなく宿ってる感じするな~」とか「この仏さまはやさしいよ~」「この仏さまは話しかけたら返してくれそうだね~」とか、そういった発言を連発していた。いや、いまだってしょっちゅうこんなことは言っているのだが、なんというか、同じ言葉でも、以前とは、意味合いがまったく違ってしまっていることに気がついたのだ。

 

 

 

以前の私は、仏像と向き合うとき、「自分 対 仏さま」という図式でもって、その空間を認識していた。「自分」という存在と、「仏さま」という別々の存在が、お堂で静かに向き合っているのだ、と。そうして「仏さま」にやさしく包んでいただいたり、力強く励ましていただいているのだ、と。そう信じて疑わなかった。

 

でも、いまの私は、「自分 対 自分」という意識で……いや、これはまったく正確な表現ではないな。「対」っていうのはふたつ以上の存在に使う言葉だから。言うなれば……そう、「自分」。「自分」だけ。薄暗いお堂に「自分」だけがいる。そんな意識で、物質としての「仏像」と向き合っている。

 

 

 

「仏像」は、あくまで「仏」をあらわした「像」なのであって、「仏」本体ではない。

 

なんてことを言うと、え! は? うそうそ! じゃああのお寺の○○仏はどうなの!? あの仏像の中にはぜったいやさしい仏さまが宿ってるよ! だって私、あの仏像の前にいると、いっつもふわっと愛に包まれたような気がして、涙が出てくるんだもん! ……と、以前の私なら、むきになって抵抗していたことだろう。

 

うーん。でもねえ……個々の「仏像」に個別の「仏さま」が「宿る」とは、いまの私には、どうしたって考えられないのですよね。

 

いまの私の考えをまとめると、「仏像」に仏さまが「宿る」のではなくて、「仏像」を通して、「仏さま」という存在にアクセスしているんじゃないかな……という感じです。仏像は、言わば「方便」。で、アクセスツールとして使いやすい仏像と、そうでない仏像がいて、それは観る者の感性によって微妙に違ってくるのではないかな、と。

 

「アクセスツール」だなんて、夢がないですか? でも、私の感性に照らし合わせると、こういう表現がもっとも的確なのです。

 

 

 

で、ここからが重要なのですが、「仏さま」にアクセスする、と言いましたが、じゃあ仏はどこにいるのよ? ってことを考えたら……お寺でもなく、空の上でもなく、山の向こうでもなく、宇宙でもなく……自分の中なんですよね。

 

いや、これも正確ではないな。もういいや、言いきってしまおう。

 

「自分」自身が、「仏さま」なのです。

 

 

 

ひとりの「自分」の中には、いろーんな人がいます。よく笑う人、よく泣く人、怒りっぽい人、親切な人、意地悪な人、ていねいな人、がさつな人、大胆な人、繊細な人、勉強が得意な人・苦手な人、運動が得意な人・苦手な人、歌が得意な人・苦手な人、ポジティブな人、ネガティブな人、視野が広い人、狭い人、あたたかい人、冷たい人……。表面に出てきやすい人格と、奥深くで眠っている人格、それぞれがあると思うのですが、すべての人はみな平等に、すべての素質を持っているのだと思います。

 

これらのすべてを持つ個人にとってとくに「善」とされる性質、それを純化させたものが「仏さま」なのかな、って。

 

それが表面に出てきているとき、その人は「仏さま」そのものです。いや、表面に出てきていなくても、「仏さま」そのものなのです。

 

 

 

で、それぞれの善なる性質に名前を与えたものが、それぞれの「仏さま」なのかなって。それぞれの仏さまの仏像は、そこにアクセスしやすくするためのツールなのかなって。

 

たとえば、自分の中の慈悲心にアクセスしたいときには観音さまの仏像、弱い自分を打ち砕くような力にアクセスしたいときにはお不動さんの仏像……とか。

 

実際、観音さまと向き合ったあとには、体中が愛で満たされたようなぽかぽかとした気分になるし、お不動さんの像と向き合ったあとには、自分を頼もしく思う力がりんりんと湧いてくるし……。

 

仏像なしでもアクセスすることは可能だけど、やはり視覚的な補助として、仏像はすごく有効なツールだ。昔の人の知恵に感謝、です。

 

 

 

仏さまは自分の中にいる。

いや、自分は、仏さまそのものだ。

 

そう考えることは、少なくとも、私に、果てしない心強さをもたらしてくれる。

 

それだけでいいんじゃないかな、と思っている。