何にだってなれる。

2014年6月21日

昨年末、伊豆の河津町にある南禅寺というお寺を訪れた。お堂の中にあった仏像は、現在は隣に新しく作られた展示館に移されていた。その時間、そこを訪れていたのは私たちだけだったので、明るく清潔な展示館の中で、思う存分、その地に伝わる仏像を拝観させていただくことができた。

 

その中に一体、びんずる尊者坐像として伝わっているお像があった。しかしそのお像は、本来、お坊さんの像(僧形坐像)である、ということだった。しかし、地域の方々はおびんずる様と信じてゆずらない。「自分の身体の悪い部分と同じところをなでれば治してもらえる」との言い伝えから、人々は像を遠慮なく撫でまわした。おかげでその本来お坊さんとしてつくられた像のからだは、人の手の脂と摩擦とで、あちらこちらがつるつるになってしまっていた。

 

「撫でてもいいですよ」とご案内いただいたので、私も、ためらいつつも、頭部と肩のあたりをさすらせていただいた。平安時代の仏像に触るのはなんせ初めての体験だったので、たいそう緊張した。しかも本来この像はお坊さんを象ったものである。(いや、びんずるだってお坊さんではあるが。)お坊さんの頭部をべたべた触るだなんて……! 違う意味でも緊張した。

 

しかし、ひとたび触れてみると、緊張はあっという間に解けていった。なんともすべらかで、そして不思議にあたたかな感触があった。とてもやさしい波動が手のひらがら伝わってきた。全身の力がふわっと抜けていくような……。手を離すのが惜しくなるぐらいだった。

 

「全国から、ご利益がありましたっていうご報告を、たくさんいただくんですよ」係の人が、笑顔でご説明してくださった。

 

本来、僧形坐像であったはずなのに、この木像は、ここではおびんずる様としての役割をまっとうしているのだ。自分の身体を触らせてくださるだけでなく、ご利益まできっちりと与えてくださるとは……。なんて尊く、ありがたい存在だろう……。目を閉じて手のひらを合わせ、しばし真剣に拝ませていただいた。

 

聞けばこの僧形坐像、お地蔵さんとして信仰されていた時代もあったらしい。

 

以前、京都のとあるお寺に行ったときにも、「どう見ても帝釈天さまですよね……?」という方が、文殊菩薩とセットになって、「普賢菩薩」として祀られているのを見た。こういった事態は、各地で割と良く見かけるのだ。お寺の都合だったり、それこそ地域の方々の信仰だったりで変わってしまうのだろう。

 

南禅寺のお坊さんの像は静かに笑っていた。「いいんですよ。求められている役割を、きっちり果たすだけです」そう言っているように思えた。あまりにも、穏やかだった。すっかり感服してしまった。そしてその像が大好きになってしまった。ポストカードを一枚買って手帳に挟み、折に触れてそのやさしいお姿に心を和ませていただいている。

 

 

 

すべての存在は、本当は、その存在の中に、すべての存在を内包しているのだろう。昨日も書いたが、表面に出てきやすい素質と、そうでない素質があるだけで、みな本当は、すべてを持っているのだ。

 

南禅寺の僧形像や、京都のお寺の普賢菩薩像、全国各地の「本来違うんだけど……」な像たちは、その事実を体現してくれている存在なのだと思う。

 

みな、本当は、どんな存在にだってなれるのだ。

 

 

 

でも、まあ、これは「仏」だからできる所業であるのかもしれない。我欲にまみれた私たち人間がこれをやるには、やはりまだまだ修行が必要だ。

 

その修行というのは、自分が持って生まれた性質(表面にでてきやすい性質)をきっちりと理解して、それをしっかりと生かして生きること。絵を描くのが得意な人は、おのおのの持ち場でその才を発揮していくこと。教えるのが得意な人は、いろんな場面で人を教え導いていくこと。華やかな笑顔を持つ人は、そのオーラをもって周りの人々を励ましていくこと……。

 

自分が自然にできて、かつ、他を利する性質を持つ事柄。

 

それを、たゆまず、でも肩の力を抜いて、淡々とやっていくことを、もしかしたら「菩薩行」と呼ぶのかもしれない。

 

自分なりの「菩薩行」を、夢中になって、やってやってやり切ったときに、「ああ、自分は本来、なんにでもなれるんだ」という境地に達するのだと思う。

 

だって、やってやってやりまくっているうちに、人はどんどん透明になっていくから。

そうしたら、「自分はなんでもない存在なんだ」と気付けるから。

 

なんでもない存在だからこそ、なんにでもなれるのだ。

 

「成仏」ってこういうことなんだと思う。

 

 

 

今回の記事は南禅寺の「おびんずる様」のポストカードをそばに置いて書きました。

 

南無びんずる尊者。合掌。