揺れを楽しむ。

2014年6月23日

昨日は、そぼ降る雨の中、丸一日箱根の町に遊んできた。上京中の母のお供である。母は俗に言う「パワースポット」なるものが大好きなので、それを中心にスケジュールを組み立てた。由緒ある神社等を巡りながら感じたことはたくさんあるのだが、それはまた今度書くことにして、今回書きたいのは、道中、バスの車内で感じた、ものすごい「揺れ」と、それに対する私の反応について。

 

箱根湯本駅から芦ノ湖畔まで出るには、バスに一時間ほど揺られなくてはならない。くねくねした山道をのぼるバスの中では、当然乗客も右へ左へ、左へ右へ……。この揺れがかなり激しくて、体全体が持って行かれるようなところも多々ある。私もどんなに力を入れても、結局為すすべなく激しく揺られて、当然のごとく10分後にはすっかり車酔いのような状態になって、全身が冷え、生あくびが止まらない……。

 

しかし、ある瞬間にちょっと考え方を変えてみたら、ふっと楽になったのである。バスの揺れに抵抗するのではなく、自分からその揺れに同調してみる、というか、「あ、右に揺れるな」と思ったら、揺れに体が持っていかれる一瞬前に自分も右に体を傾ける。左も同様。「揺れ」と自分を一体化させるのだ。そうしたら車酔いの気持ち悪さはだいぶマシになった。

 

これは随分と面白い体験であった。

 

「揺れちゃだめだ……」と思うのにどうしても揺れに体を引っ張られるからつらくなっていたのであって、思い切って「揺れてもいいんだよ~」と自分に許可を出したら、一気に楽になったのである。

 

これ、もしかしたら、なんにでも当てはまるかも。ものすごい法則発見しちゃったかも……などと、ひとりで興奮してしまった。

 

 

 

「ど真ん中」を生きている人に憧れる気持ちは、きっと誰にだってあるだろう。自分も、自分の「中心」を生きていきたい、一本「芯」を持って歩んでいきたい、かっこよく生きたい、と。でも、その「中心」とやらを定めるためには、まずは大小さまざまな揺れに翻弄される時期がなくてはいけないのかもしれないな、と思うのだ。

 

私がやっている瞑想でも、はじめる前は、上体をゆっくりと右へ左へと揺すって、自分の芯をまっすぐにするという作業を行う。若干面倒ではあるが、この「整芯」を怠ると、瞑想中に心も身体もぐらぐらとしてしまって、結局、まーーーったく集中できなくなってしまうのだ。

 

「中心」なんて、はじめから狙いうちできるようなものではないのかもしれない。右へ左へと激しく揺られているうちに、自然と立ち上がってくるものこそが、確固として、それでいてしなやかな、その人だけの本物の「ど真ん中」「中心」「軸」となっていくのだろう。

 

それを押さえた上で人生を歩んで行けば、ぐらぐら、ぶれぶれ、ゆらゆらな自分をも楽しめるかもしれない。

 

 

 

「これが私の中心です! ここから一歩も動きたくありません!」なんていう風に思ってしまうから、ぐらぐら、ぶれぶれ、ゆらゆらで、ひ弱な自分がつらくなるのであって、「揺れて当たり前だ、この揺れに身を預けているうちに立ち上がってくるものもあるでしょうよ」と、どっしり構えられるようになれば、その人はもう大丈夫。生きるべき道をしっかり歩んでいけると思う。

 

自分の小さな頭で考えて無理やりに定めた「中心」よりも、流れに身を任せているうちにごくごく自然に定まっていった「中心」こそが、真の意味で信頼に足るものなのだ。

 

もちろん、ある程度「これをやろう」と決めることは大事だが、一度決めて行動を起こしたら、あとは大小さまざまな「揺れ」にも必要以上に抵抗せず、「こんなこともあるさ」ぐらいの気持ちで、都度目の前のことを淡々とやっていけばいいのだと思う。「ぐらぐら、ぶれぶれ、ゆらゆらな自分、かっこ悪いなー」なんて思わなくてぜんぜん大丈夫。それがなければ、かっこいい人になんてなれっこないのだから。

 

 

 

以上、天下の険にてゆーらゆーらゆーらゆーらしながら考えたことでした。ていうかまだ体が揺れてるんですけど……。