布施と「いま」「ここ」

2014年6月27日

昨日、アンパンマンは菩薩なんだぜ、「ぼくの顔をお食べよ!」は究極の布施行なんだぜ、という記事を書いた。書きながら思ったのは、「布施っていうのは、執着を手放すための、よくできたレッスンのうちのひとつなんだなあ」ということ。

 

「喜捨(きしゃ)」という言葉もあるが、布施をするときには、する側に必ず「よろこび」がなくてはならないのだ。嫌な気分のままに無理やりになにかを他に与えたところで、それは真の意味での布施にはならない。

 

でも、よろこびを持つためには、まずは執着というものを手放さなきゃいけないわけで……。

 

じゃあ、その執着っていうものはどこから来るのかっていうと、過去やら未来やらの「幻想」からなんですね。

 

言うなれば、布施というのは、「いま」「ここ」にしっかりと自分の舵を下すための修行なのだ。

 

 

 

たとえば昨日「無財の七施」の一番目、二番目に挙げた「(慈)眼施」「和顔(悦色)施」は、いずれも、いつだってやさしい表情で人に接することの大切さを説いているが、これだってその時その時の感情にひきずられていたら、ぜったいにできないことだ。

 

直前になにか嫌なことがあった人に、「さあ、眼施・和顔施です! にっこりとした表情を他に施しましょう!」なんて言っても難しいことだと思う。どうしたって、すでに起こってしまったことへの怒りや悲しみや、未来への不安の方が先に立って、「にっこりなんてしてられるかーーー!!!」って気分になってしまう。それは人間として至極まっとうな反応だ。

 

しかし、すでに起こってしまったことを、くよくよめそめそむかむかあーすればよかったこーすればよかった……と自分の脳内で弄びつづけたり、まだ起こってもいないことを、くよくよめそめそむかむかあーでもないこーでもないどうしようどうしようどうしよう……とこねくり回してみたりしたところで、状況はひとつとして変わらないのだ。だって未来も過去も、手で触ることのできない、いわば実体のないものだから。言ってみれば、両方、幻想なのだから。

 

それならば、「いま」「ここ」に心をどっしりと落ち着かせて、にっこりと過ごしていた方が、周りにとっても、なによりも自分にとってもぜったいにいいに決まっている。もちろん、過去を反省したり、未来はこうしてみよう、と頭を使うことは大事だが、一度決めたらもう過去も未来も思い切って手放して、「いま」「ここ」に徹してしまうこと。ただただ目の前のことを淡々とやっていくこと。

 

その態度が、自然と、「他になにかを施す」ことにつながっていくのかな、と。

 

布施行を積んでいるうちにどんどんどんどん執着は離れ、執着を手放すうちにどんどんどんどん自然な布施行を積んでいくことになる……。

 

おもしろいな、と思う。本当にこの世はよくできているなあ!

 

 

 

余裕があるときに誰かになにかをしてあげることは誰にだってできる。でも、余裕がないときにやってこそ、大きな修行になり、それが大きな「よろこび」をも自分にもたらしてくれるのだと思う。

 

 

 

さて、新月の金曜日。今日も一日、機嫌よく、気持ちよく施して参りましょう!