「裁く」ということ。(その1)

2014年7月1日

最近、別々のお寺で、立て続けに閻魔大王の巨像を見ている。そう、あの恐ろしい形相を持つ、あの世の裁判官、エンマさまである。彼の裁きによって、人は死後、極楽へ行くのか、地獄に落ちるのかが決められるのだという。幼いころ、「嘘をつくとエンマさまに舌を抜かれるぞ!」とおどかされたことがある人も多いだろう。

 

 

 

私は、極楽も地獄も「あの世」にあるものではないと思っている。そんなものはおとぎ話にすぎない。じゃあどこにあるのかと言えば、いま、ここで生きる私たちの心の中である。

 

心からくつろいだ気持ちでゆったりと笑っているとき、その人は極楽にいる。逆に人や自分を責めて、怒りや嘆きや恐怖に心が支配されているとき、その人は地獄にいる。

 

極楽も地獄も、決して、自分を離れたところには存在しないのだ。

 

 

 

……と考えると、あの恐ろしい顔をした閻魔大王も、いま、ここに生きる、自分自身の心の中にいるということになる。ひとりにつき一体ずつ、必ず閻魔大王はいるのだ。

 

閻魔大王というのは、きっと、「自分自身に備わった良心」という名の法典を持って、常に自分自身を裁いていく、その「働き」を擬人化した名称なのだろう。

 

この世のどこかに、絶対的な「善悪一覧表」なるものがあって、逐一その人の行動をそれに照らし合わせて、「これは良いこと!」「これは悪いこと!」という風に裁いていくのではなく、あくまで個々人の持つ「良心」が善悪を決めていく。

 

「良心」に沿った行動は「善」、そむく行動は「悪」。

 

「悪」の行いは、ほかならぬ自分自身に呪いをかける。これを「業(カルマ)」と呼ぶ。(これについては以前も詳しく書きました。リンクを貼っておきますのでご参照ください。→「前世」とか「因果応報」とか。(その2)

 

カルマを積めば積むほど、その人の心は、自分自身のかけた呪いによってがんじがらめになってしまう。

 

この状態こそを「地獄」と呼ぶのではないだろうか。

 

地獄は自分が作り出すのだ。

 

 

 

で、閻魔大王。意外に知られていないことだが、彼自身、日に三度、地獄の責め苦を味わっているのだそうだ。具体的に言えば、熱く焼けた鉄板の上に身を横たえさせられた挙句、鉄の鉤で口をこじあけられて、どろどろに溶けた銅を注がれるのだそうだ。閻魔大王が、いつだって真っ赤な顔をして、さらにあごと胸がくっついたような状態で表現されているのは、この責め苦による火傷のせいなのだとか……。

 

一切の平等を説く仏教では、「裁く」という行為自体が大罪なのだ。裁くとはつまり、自分を相手よりも高いところに置いての行為だから。

 

 

 

これ、なんというか、やりきれない話ですよね……。誰かがやらなきゃいけないからやっているだけなのに……。閻魔大王が可哀想すぎる……。などと思って、その話を思い出すたびに、私も随分と切ない思いを抱えたものだが、この間、ふいに気がついたのだった。

 

ああ、閻魔大王は、きっと、地獄の責め苦すら一身に引き受けて、すべてを覚悟した上で、「裁きを与える存在」という役割をやっているのだ、と。それも、ひとえに、地獄に落ちた存在を、そこから救い出すために。

 

閻魔大王は、とてつもない慈悲の実践者だったのだ。

 

逆に言えば、「裁き」というのは、そのぐらいの覚悟を持った上で、はじめて成り立つ行為なのだ。自らを省みないほどの強大な慈悲心とセットでなければ、誰かを裁くことなど、本当はしてはいけないのだ。

 

 

 

長くなってきたので明日に続きます!