「裁く」ということ。(その2)

2014年7月2日

昨日の記事の続きです。

 

閻魔大王は、自分自身も大変な苦しみを受けながら、それでも私たちのために「裁き」を止めない、彼は大変な慈悲の実践者なのだ、というお話。

 

はああ? なんで地獄に突き落すのが慈悲なのさ!? ということになろうが、答えは簡単。地獄の中でしか仏に出会えないということが、私たち人間にはあるからだ。

 

閻魔大王は、私たちに「仏」に会って欲しくて、あえて地獄へと送り込んでいるのだ。

 

 

 

地獄の苦しみの中で、私たちは、自分のあり方を必死で省みることとなる。なにがどうしてこうなったのか? なにゆえに自分はいま、このような責め苦を受けることとなっているのか?

 

苦しみの果てに、やがて、結論めいたものが見えてくる。もしかして……

 

「自分の心を、無視し続けたから……?」

 

その瞬間、赤黒い地獄の釜の底に、涼やかな錫杖の音が響き渡る。

 

救いの仏、地蔵菩薩の登場である。

 

地蔵菩薩は地獄のおどろおどろしい風物をものともせず、杖をつきながら、まっすぐに私たちのところへ降りてくる。

 

その慈悲深いまなざしの中で、私たちは小さくうなずき、決意を固める。

 

「これからは、どんなときも、自分の心に従って生きよう……!」

 

刹那、あたりが光に包まれる。闇を一斉に駆逐する、力強い、光、光、光……

 

 

 

この光こそを、「救い」と呼ぶのだろう。

 

 

 

それで、この地蔵菩薩と閻魔大王、実は同一人物だったりするのが面白いところで。(お寺ではだいたいこの二体はセットでまつられています。)

 

自分で人間を地獄に突き落しておいて、自分で救い出すだなんて……冗談じゃない! とんだ自作自演野郎だ! と暴れまわるのはまだ早くて。

 

彼(ら)は、その身を持って、すべては自分だということを教えてくれているのだ。

 

 

 

閻魔大王も、地蔵菩薩も、両方、自分の中の一部の働きを擬人化(擬仏化?)したもの。

 

閻魔大王は、「心に背いた行動をするとこういうことになるのだ……」と、自覚させる働き。

地蔵菩薩は、「これからは心に従って生きていこう!」と、自分自身に決意させる働き。

 

どちらも、結局、「自分」なのだ。

 

 

 

閻魔大王と地蔵菩薩は、いつだって私たちの中に在り、私たちが、他でもない自分自身の心を基準に、自分自身の足でしっかりと「生」を歩んで行けるように、セットになって働きかけてくれているのだ。どちらが欠けても「救い」にはならない。

 

 

 

自分を地獄に突き落すのは自分だし、そこから自分を救い出すのも、また、自分なのだ。

 

 

 

どんなに間違った道を歩んだとしても、人間は必ずやり直せる。閻魔大王と地蔵菩薩が自分の中にいる限り、ぜったいに。

 

これって、ものすご~~~く心強いことだと思うのだ。

 

 

 

 

 

南無閻魔大王。南無地蔵菩薩。