一口食べて、箸を置く。

2014年7月5日

自分を強制的に「いま」にいさせる優れた方法に、「食事の際、一口食べるごとに箸を置く」というものがある。枡野俊明さんという曹洞宗のお坊さんがテレビでご紹介されていたのをたまたまお見かけして以来、ほんの時折、この方法を試しては「これぞ禅的生活……!」と悦に入っている。

 

姿勢を正してご飯やおかずを一口分だけ食べたら、箸を箸置きの上にそっと戻し、手は膝の上に置いて、あとはひたすらに口の中のものを味わうだけ。もちろんテレビや音楽などの一切ない、静かな部屋で。

 

これ、最初はぜんぜん慣れなくて、「こ~~~んなしゃらくせえことやってられっか~~~!」とちゃぶ台をひっくり返しそうになるほどいらいらするのだが、(時間もかかるし、単純に面倒臭いし……)しばらく我慢して続けていると、突然に、食べ物の味がものすごくよく分かるようになる瞬間が訪れて、驚かされるのだ。

 

「え! お米ってこんな甘かったっけ!? ごぼうもれんこんもすっごく甘いんですけど! 藻塩って普通のお塩とぜんぜん違う味がする~! 煮干しの出汁、最強! これこそ生命のスープだ!!!」

 

素材ひとつひとつが、ぐん、と胸を張って「どや!」と言わんばかりの表情で、私の体内を駆けまわる。舌が、食道が、胃が、大喜びでそれらを迎え入れる。その一瞬一瞬が真剣勝負で、「くよくよ」やら「はらはら」やらにとらわれている暇なんてない。

 

「食べる」って、こういうものだったんだな、と思う。

 

 

 

私は、前は、たとえば豚汁なら「豚汁の味」、カレーなら「カレーの味」というものが、単体であるものだと思っていたのだ。いま思えば、なんて平面的な味覚だったのだろう。豚汁は、豚肉(それも部位によってぜんぜん味が違う)と大根とにんじんとごぼうとねぎとこんにゃくと油揚げと出汁と味噌とみりんとしょうゆとごま油と……それらまったく別個の食材と調味料、それぞれの「いのち」が主張し合って、でも最後にはちゃんと譲り合って、おさまりの良い「豚汁の味」を作り出していたのだ。言うまでもないことだが、それぞれに「味」があって、それが複数集まってはじめて「豚汁の味」は「味」として存在するようになるのだ。

 

こんな単純なことに思いをいたすこともなく、ただ機械的にものを口に運んでは、機械的に味わっていた年月が悔やまれる……。でも、知ることができて良かった。

 

 

 

食べ物って、いのちだったんだ。そのいのちが、わたしのいのちになっていくんだ。

 

そうか、いのちって、つながっていくものなんだ……!

 

 

 

こうなってくると、もう、ありがとう、の言葉しかなくなってくる。食材そのものにありがとう。育ててくれた人にありがとう。出荷してくれた人にありがとう。運んでくれた人にありがとう。売ってくれた人にありがとう。調理してくれた人(たいてい自分だけど)にありがとう。これを食べることができる、自分の健康にありがとう。今日も食事が与えられたことにありがとう……。

 

感謝は「する」ものではない。感謝という状態に「なる」ものなのだ。

 

 

 

「いのちの授業」などと言って、ひよこから大切に育てた鶏を、最後に殺して、そのお肉を調理してみんなでいただく……そんな授業が昔ずいぶんと話題になったが(いまでもやっているのかな?)、たとえば一ヶ月に一度、給食の時間に、一口ごとに箸を置く、目の前に与えられた食事を心をこめていただく……といった時間を設ければ、「いのち」の体験は十分にできるんじゃないかな、と思った。

 

 

 

今日もいのちをいただいて、いのちをつないで生きていきます。ありがとう。