セミが私で、私がセミで。

2014年7月8日

昨日の夕方、雨上がりの公園で、今年初めてのセミの鳴き声を聴いた。

 

 

 

1か月ほど前に、「死なない、ということ。」という記事を書いた。京都のお寺で阿弥陀如来と向き合ってうつらうつらしていたら、いつの間にやら、自分自身が降りしきる雨そのものとなって世界を循環していたという、荒唐無稽な「実体験」の記事だったのだが、アップした直後、友人からこんなメールが届いたのだった。

 

「わたしも同じような経験したことあって、昨年の夏、セミがわたしか、わたしがセミか、わからなくなったの!笑 静かな場所でセミの鳴き声しか聴こえなくて、そしたらわたしも気付いたらセミだったんだよね、たしかにあの時。。笑」

 

ちなみにこのメールをくれた友人はごくごく普通の生活を送る女性であり、普段からスピリチュアルな世界に身を浸して生きているようなタイプではない。だからこそ、この感想は嬉しかった。ものすごく、嬉しかった。気づきは、どんな人にも、まったく平等に訪れるのだと思った。

 

 

 

セミが私か、私がセミか……。

 

 

 

実は、私も、まったく同じ経験をしたことがある。

 

これもまた昨年の話なのだが、セミたちの鳴き喚く暑い盛りの休日の昼下がり、ふと思い立って窓辺の椅子に腰かけ、軽く目を閉じて瞑想をしはじめた私は、そこで、ふっと、自分もセミもなくなるような感覚に包まれたのだった。

 

正確に言えば、「私の中で」「セミとしての私が」鳴いていた、という感じ。

 

「セミとしての私」が、木の幹にしっかりと掴まって、全力で「いま」を叫んでいた――

 

ビジュアルとしてその光景が見えたわけではないし、時間にしてみればほんの数秒の間のことだったのだとは思う。でも、その体験には、筆舌に尽くしがたい、圧倒的なリアリティーがあった。

 

 

 

私たちは、まったくもって、同じひとつの「いのち」なのであって、その同じものの発現の仕方として、それぞれ形の違う、別々の肉体が与えられているに過ぎないのだと思った。

 

私たちがそれぞれ個別のいのちを生きている、のではなくって、たったひとつの同じいのちが、私たちひとりひとりを生きている……。

 

そのことを実感として知ってしまった。

 

 

 

セミも、鳥も、犬も、猫も、虫も、木も、花も、土も、太陽も、雨も、風も、家も、車も、電柱も、PCも、鉛筆も、あなたも、私も、彼も、彼女も、あの子も……

 

ぜんぶがぜんぶ、「ひとつ」のあらわれに過ぎないのだ。

 

そう、本気で思った。いまでも思っている。

 

 

 

同じひとつのものなのに。奪い合い、憎しみ合い、傷つけ合わずにはいられない、私たちという存在の、醜さ、悲しさ、むなしさよ。

 

どうか、どうか、気づきが広がっていきますよう……。

 

七夕は過ぎたけど、そう祈らずにはいられない。