「遊び」ということ。

2014年7月9日

昨日、このブログで、「私たちは同じひとつの「いのち」なのであって、その同じものの発現の仕方として、それぞれ形の違う、別々の肉体が与えられているに過ぎない。私たちがそれぞれ個別のいのちを生きている、のではなくて、たったひとつの同じいのちが、私たちひとりひとりを生きているのだ。」といったようなことを書いたところ、以下のようなご質問をいただいた。

 

ひとつの存在がなぜ分離体験しているのか、という点に対する考察は過去に記事にしてますか? もしあるなら、おしえていただけないでしょうか?

 

 

 

もともと「ひとつ」であったものを、どうしてばらばらにしてしまったのか。どうして私たちは、それぞれに分離した存在としてこの世を生きることになったのか……。

 

これについては、私の中では、正直、まだ明確な答えが出ていない。「こうじゃないかな?」と考えることはあるが、正解かどうかは分からない。「ひとつ」の圧倒的なリアリティーの前では、私が頭を使って「考えた」ことなど、あまりにちっぽけなもののように思える。

 

なので、いまから書くことは、あくまで現時点での私の「考え」に過ぎない。その前提でお読みいただけると嬉しいです。

 

 

 

結論から先に言ってしまえば、私たちは、ただ、「味わいたい」のだと思う。

 

いろんな体験、いろんな感情を、自分のものとして「味わいたい」。それがために、「自分」と「他者」とを分けたのだ。

 

たとえば、宇宙にたったひとり、自分しか存在しないという状況に置かれたとしたら。そこにはなにひとつ生まれないだろう。感情ひとつ生まれないことだろう。私たちは他者がいてはじめて、自らの存在を自覚し、自らの感情を認識できるのだから。喜びも悲しみも怒りも希望も絶望も、他者に自分を反射させてはじめて形づくられる。「自覚」や「認識」という言葉すらも生まれない世界。「自分」さえいない(「認識」できないものはないのと同じ)、完全なる「無」の世界。

 

そこでは決して味わえない「なにか」を味わいたくて、私たちは「分離」を選んだのだろう。

 

その「なにか」は、たとえば、味覚、嗅覚、視覚、聴覚、触覚の五感を使って感知できる世界。喜怒哀楽などのひとつひとつの感情。高揚感と絶望感。分かり合えない苦しみ、分かり合えたよろこび。生きること、そして死ぬこと。その体験。すべて。

 

ただただ、それを味わいたくて、私たちは……。

 

つまりは、ぜんぶ、「遊び」ということだ。すべて、「やりたくて」やっているのだと思う。

 

でも、分離の世界に生きる我々は、その大前提を忘れてしまっている。「分離」の方を前提として、自分が遊びでそれをやっていることをすっかり忘れて、もがき、苦しみ、他人を攻撃し、同時に自分を責めて責めて責めまくって……。

 

絶望。

 

その果てに、人は、「無」という名の希望を見るのだろう。

 

「汝、それなり!」の声を聞くのだろう。

 

 

 

そのすべてが、「遊び」なのだと思う。

 

そして、人は、そのすべてが「遊び」であったことに気がついて、はじめて、本気で、自分で選んで始めた「遊び」を楽しめるようになるのだと思う。そこには余裕が生まれるからだ。リラックスして、目の前の物事に向かっていけるようになるからだ。

 

真剣に、でも力を抜いて、「遊び」を目いっぱい生きて、そして最後には笑って死んでいきたいな、と思う。

 

 

 

……以上、現時点での私の考えでした。うーん、「考え」というほど立派なものでもないか。ははは。

 

M弘さん、いかがでしたでしょうか。