自分の役割、他人の役割

2014年7月10日

昨日は朝イチでちょっとした事件が勃発し、深く考えこんでしまった。この事件を受けて、泣きながら自分のあり方を反省し、考えに考えて、周りの人の力も借りながら導き出した結論は……「人にはそれぞれ役割がある」というもの。

 

あまりにシンプルな結論だった。

 

よく聞く言葉だけど、どうも私は、これを真の意味で理解できていなかったらしい。だから昨日は変な風に凹んだのだ。

 

 

 

人にはそれぞれ役割がある。

 

これって、ひっくり返せば、「役割以外の部分はやろうとしてもできない」ということ。自分がカバーしきれない部分は、誰か他の人の役割だということだから。他の人の領域を侵すことはできないようになっているのだ。

 

私はここを勘違いしていたようだった。だから、ある方の反応に、必要以上に傷ついたのだ。

 

もちろん、「役割」の範囲を少しでも広げようと努力をすることは無駄ではない。そして、「できること」の精度を上げていくことは可能だ。そこを諦めるつもりは毛頭ない。

 

でも、それはあくまで「できること」の範疇にあるものの話であり……。自分というものの性質をきちんと見極めて、できないものはできない、と諦めることも、時には必要なのだ。持てる力には限りがあるから。できないことに力を費やして、自分だけに与えられた役割をおろそかにしてはいけないのだ。

 

昨日の朝に起きたのは、いまの私には「できない」部分を、思いっきり突きつけられるような事件だった。ショックだった。

 

でも、だからと言って、傷つく必要もなかったのだ。

 

 

 

傷つくっていうことは、つまり、自分の役割の範囲をきちんと認識できていなかったということのあらわれ。私は、傲慢だったのだと思う。

 

「できると思っていたこと」と「実際にできること」の落差に、ガーンとなってしまったのだ。そして勝手に傷ついたのだ。

 

事件に傷つけられたのではない。自分が勝手に傷ついたのだ。

 

 

 

少し前に、このブログでも「一隅を照らす」という言葉を取り上げた。

 

個人が照らせるのは「一隅」だけなのだ。

 

そして、その「一隅」の範囲に狭い広いはあっても、どちらが偉いとか偉くないとかいう話には、決してならないのだ。

 

だって、そこにも、必ず、照らされている存在がいるわけだから。

 

そして、照らされることを必要としない存在などいないのだから。

 

そこを否定するのは、それこそ傲慢というものだと思う。

 

それならば、私は、いまの私が照らせる範囲を、精一杯照らすだけだ。照らそうと思うことさえせず、ただただ愚直なまでに、できることを、ひとつずつやっていくだけだ。

 

 

 

それしかできないし、それでいいのだと思う。

 

 

 

 

 

(なんだか単なる自戒の記録になってしまった……。ごめんなさい。でも大事なことだし、忘れたくないな、と思ったので。考察が進んだら、またいつか、あらためて、ちゃんとした形で書けたらいいなと思います。)