「いいこと」≠「しあわせ」

2014年7月11日

いい子ぶっているわけではないが、私はだいたいいつも、誰かのしあわせを祈っている。家族や友人、恋人。彼らのしあわせを祈ることはまあ当然として、いままで会った人すべて、ただすれ違っただけの人すべて、挙句の果てに、実際には会ったことのない人たちすべてのしあわせまで祈ることさえあるのだから、自分でも「なんでそこまで……」と思う。

 

でも、私は、単純に、祈りたいのだ。祈っているときは、私自身、しあわせな状態に置かれるから。ひたすらに静かで、安らかで、体の奥の方からあたたかな光に包まれる感じがするから。自分自身を、果てしなく心強いものとして感じられるから。

 

そう、私の言う「しあわせ」というのは、この状態を差す言葉なのだ。

 

この状態を、一瞬でも、この世のすべての人が味わうことができたら。世界はきっと――

 

 

 

ここで確認しておきたいのが、「いいことが起こる」ことと「しあわせである」ことは、実はまったくもってイコールではないということ。逆に言えば、「嫌なことが起こる」ことと「しあわせでない」ことも、決してイコールではないということだ。

 

しあわせというものは、実は、そのときに自分が置かれている状況とは、まったく関係なくやってくるものなのだ。本当に、まっっったく関係なく。……やってくる? いや、「ここにある」かな。

 

私は、この真実を、ここ数年で、身を持って思い知ったのだ。

 

 

 

「おいしいものを食べた」「恋人ができた」「収入が増えた」「よく晴れて気持ちがいい」……。それらの、一般に「しあわせ」と呼ばれる状況は、確かに私たちに「高揚感」をもたらしてくれる。そして、高揚感は、幸福感というものに、とてもよく似ている。

 

でも、高揚感というものは、その特性上、長くは続かないようになっている。だってそれらはすべて、外側の条件に拠ってもたらされるものだから。

 

外側のことは、自分ではコントロールできない。そんなものに自分のしあわせを預けてしまったら、いつだって不安定な状況に置かれることになってしまう。「食べ物がおいしくなかったら」「恋人が去ったら」「収入が減ったら」「土砂降りだったら」……イコール、すべて、不幸、なのだろうか。

 

そうではないだろう。

 

 

 

外側の条件とはまったく関係なく、自分自身を心強く思う心を持ってさえいれば、そして「それ」にアクセスする勇気さえ持っていれば、その人は、いつだって、揺るぎなく、しあわせでいられるのだ。

 

静かで、安らかで、あたたかくて、光っている……。

その場所は、この世のすべての存在が共通して個々の内側に持っている。ひとり残らず、必ず。

 

大粒の雨を落とす、黒くて分厚い雲の向こうには、いつだってぴかぴかの青空が広がっているように。

表面の波がどんなに荒れていても、海の底は、いつだって静かで穏やかでほのあたたかくあるように。

 

「それ」は、いつだって私たちを待っているのだ。

 

私たちはその存在を感じて、そこに戻っていくだけでいいのだ。

 

 

 

もちろん、人生には「高揚感」という名のスパイスも絶対に必要だ。それは自分を前へ前へと進ませてくれる大きな力になるから。でも、スパイスは主食にはなりえない。それどころか、摂りすぎるとかえって体に毒になる。

 

「幸福感」という名の主食は、いつだって自分の内側にある。

人は、条件によらずとも、しあわせでいられるのだ。

そっと目を向けるだけで。

ぜったいに。

 

 

 

すべての人がしあわせでありますよう。

いま、この瞬間も、しあわせとともにあることに、気づきますよう。