失われた時を求めて

2014年7月18日

そしてまもなく私は、うっとうしかった一日とあすも陰気な日であろうという見通しとにうちひしがれて、機械的に、一さじの紅茶、私がマドレーヌの一きれをやわらかく溶かしておいた紅茶を、唇にもっていった。しかし、お菓子のかけらのまじった一口の紅茶が、口蓋にふれた瞬間に、私は身ぶるいした、私のなかに起こっている異常なことに気がついて。すばらしい快感が私を襲ったのであった、孤立した、原因のわからない快感である。その快感は、たちまち私に人生の転変を無縁のものにし、人生の災厄を無害だと思わせ、人生の短さを錯覚だと感じさせたのであった、あたかも恋のはたらきとおなじように、そして何か貴重な本質で私を満たしながら、というよりも、その本質は私のなかにあるのではなくて、私そのものであった。私は自分をつまらないもの、偶発的なもの、死すべきものと感じることをすでにやめていた。一体どこから私にやってくることができたのか、この力強いよろこびは? それは紅茶とお菓子との味につながっている、しかしそんな味を無限に越えている、したがっておなじ性質のものであるはずはない、と私は感じるのであった。

 

(『失われた時を求めて』 プルースト著 井上究一郎訳)

 

 

 

なにかの匂いを嗅いだ瞬間、強烈なフラッシュバックの嵐に襲われたことはないだろうか。それを冒頭に挙げた『失われた時を求めて』という小説からとって「プルースト効果(もしくは現象)」と呼ぶことを知ったのは、もうどのぐらい前になるだろうか。面白そうだなあ、と思って書店に駆け込んだはいいが、文章が難解で、最初の方のページで早々と挫折してしまった。情けない……。でもとりあえず本棚には入っている。いつか読み通せる日はくるのだろうか……。

 

 

 

それにしても嗅覚からの印象は強烈だ。専門的なことはよくわからないが、匂いを嗅ぐときには脳内の記憶を司る海馬という部分が強烈に反応するとか、嗅覚は感情を司る大脳辺縁系に直接つながっているとか、まあ、そういう理由からこういったことが起こるらしい。町ですれ違った人がつけていた「懐かしい人」と同じ香水の香りに、そのまま後ろ向きに卒倒しそうになったりとか、そういうことって……ありますよね……。

 

その香りをつけていたときの出来事や、その時の自分の感情を思い出しちゃってつらい……ということでお蔵入りとなっている香水、私にも幾つもあります……。たまに、あまりにもすることがないようなとき、プシュっとやって「おお……。なんと切ないことであることか!」とか言って涙ぐんでみたりして楽しむことはありますけどね……。暇なんですね……。

 

 

 

……ちょっと前置きが長くなりましたが。

 

私が最近思ったのが、香りって、もしかして、過去だけじゃなくて、未来の「記憶」まで呼び覚ますんじゃないの? っていうこと。未来の「記憶」って変な言葉ですが……。

 

 

 

というのも、先日、大切な友人と話していたときのこと。

 

「その人に会ったときにね、ああ、私たち、またきっと会うだろうな、って一瞬でわかったの。特別な人になるだろうな、って。だってね、その人、私の大好きな場所と同じ匂いがしたの。ものすごく、懐かしい匂いがしたの。その匂いを嗅いだ瞬間、未来が見えたの。」

 

なんて素敵な話だろう……! うっとりとしてしまった。「魂の恋人たち」という言葉が浮かんだ。いい話を聞かせてもらった。

 

 

 

私たちはそもそも自分の未来を知っていて、それをなんらかのサインという形で自分自身に送りこんで、少しずつ、それこそマドレーヌを浸した甘い紅茶をいただくように、大切に味わっているだけなのかもしれない。そのぜんぶを自分で仕掛けているのかもしれない。

 

というか、実は未来も過去もないのかもしれない。いま、この瞬間に、すべてがあるのかもしれない。未来も過去もひっくるめて、すべて、いまに。

 

そして、私たちはきっと、いつだって「いま」のすべてを知っているのだ。

 

そうでなかったら説明がつかないことが山ほどある。

 

将来自分が住む場所が突然見えたり、はじめて会う人の声を懐かしく聴いたり、亡くなったはずの愛しい人の息遣いをすぐ隣に感じたり……。

 

 

 

私たちはきっと、ぜんぶを同時に生きていて、そして、ぜんぶをすでに知っているのだろう。ぜんぶが、いま、ここにあるのだろう。

 

そう考えると、寂しくないな、と思う。

 

 

 

「その本質は私のなかにあるのではなくて、私そのものであった」

 

 

 

私も、少しずつ、わかり始めているような気がしている。

 

いまこそ積ん読を解消すべき時だろうか……。