ただ、流れとともにあること。

2016年11月22日

おはようございます。小出遥子です。

少し前にも書きましたが、夫は、私のことを「あたらしい人」だと言います。
これはなにも「新人類」とか「ニュータイプ」とか
(すみません、ガンダム詳しくないです……)
そういう意味で言っているわけではなさそうで、
「毎日、毎時、毎瞬、あたらしく世界と出会い直している人」という意味なのだそうです。

夫には、私という人間が、そのように見えるのだそうです。

それは、言い換えれば「なにもたまっていない人」ということになるのだそうですが……。
(この表現は、先ほど夫の口から直接聞きました。)

「たまっていない人」ねえ……(笑)。
いや、気に入りました。

「たまっていない」ということは、「つかんでいない」ということで、
つまりは「流している」ということになるのでしょう。

まあ、たしかに、いつからか、
人生においてのありとあらゆるすべてを「流す」、瞬間ごとに「流す」
……という芸当を覚えてから、いろいろいろいろ楽になったなあ、とは思います。

以前は、私も、
「つかんで、にぎって、離さない」
……みたいなことばかりしていたように思うのですが、
(人生のありとあらゆる局面でね! あはは!)
それって、やっぱり、疲れるんですよね。

なぜなら、自然の理(ことわり)に沿っていないから。

「ゆく河の流れは絶えずして……」じゃないけれど、
ありとあらゆるすべては、瞬間ごとに移り変わっていって。
「河の流れ」を見つめる自分すら「常ならず」で、
一瞬前の自分は、もうこの世界のどこにもいなくって。

河は、つねに流れていくからこそ、河なんですよね。
それを無理にせきとめたり、囲いこんだりしたら、
その瞬間にそれは自然の理から外れて、単なるよどみになってしまう。

私は、うつくしい河の流れそのものとして、
ただただ流れ、流されながら、そのうつくしさとたわむれていたい。

さっきは「流す」という表現を使いましたが、
ほんとうは、私がなにかを「流す」までもなく、
すでにすべては「流れている」のですよね。

ただ、流れとともにあること。
流れそのものとしてのいのちを、ただ、生きること。
ほんとうに、ただ、それだけでいい。

自分をもひっくるめたこの世界は、ほんとうはいつだってあたらしい。

これ以上のよろこびは、ないです。

 

よい一日をお過ごしください。