仏さまにお願いっ!

2014年7月21日

今日もBTUTUSのボツ原稿(ってこともないか)です。いいこと書いてあるよ!(笑)MY記事に日の目を見せられて嬉しいです……。それではどうぞ。

 

 

困ったときの神仏頼み――

 

これは古今東西不変の人間心理のようだ。私もお寺に行って仏さまに手を合わせるたび、こっそりと何かを祈ってみたりしている。願い事は即座に叶ったりなかなか叶わなかったり、またその叶い方にもパターンがあったり……。そこで考えた。如来、菩薩、明王、天部。このそれ ぞれによって、願いの叶え方もその質も、少しずつ異なってくるのではないだろうか。

 

たとえば「お金が欲しい」と願ったとする。天部は「現世利益」に強い仏さま。具体的かつ即効性がある方法をとってくださる。この場合、たとえ ば「宝くじで100万円当てさせてあげよう」という風に、外側の状況をさっと整えてくださるのだ。しかし、お金は使えば消えてしまう。手っ取り早く叶った 状況は、なかなか持続しないものだ。

 

菩薩や明王は「行動」の仏さま。本人の行動を支えることによって、その人自身が願いを叶える力をさずけてくださるイメージ。この場合だったら、 本人が自分の才能に気づき、それを存分に発揮できるよう行動することをサポートしてくだり、結果、業務成績が上がったり、もっと自分に合った仕事が見つかったりして、気づいたときには収入が増えている……そういうルートで、「お金が欲しい」という願いを叶えてくださるのだ。周りくどいようだが、堅実な方法だと思う。

 

如来は「静観」の仏さま。天部や菩薩・明王のように積極的に働きかけることはせず、ただただ静かに、本人の心を見つめ続けるだけ。しかし、その圧倒的に落ち着いたまなざしの中で、人々はやがて、心の中になにかあたたかな感触を発見する。それは、言葉にするならば、いまここにあるものに対する 感謝の気持ちだ。「お金はないけれど、健康で笑っていられるのだから、十分ありがたいことじゃないか」という境地。本人が問題を問題として捉えなくなった 瞬間、その問題は消えてなくなる。状況は状況でしかなく、それを問題とするかどうかは自分が勝手に決めることだから。

 

これって究極の問題解決ではないだろ うか。一見して肩透かしを食らったかのような感触があるのだが、結局は、これが一番、人間が心安らかでいられる境地だし、あらゆる願いの出発点兼帰着点は そこなのだから、やはり究極なのだろう。

 

人事を尽くして天命を待つ。なんにせよ、できることやりきったら、力を入れずに神仏に気持ち良く祈って、気楽に結果を待つのがよいのだろう。信じようが信じまいが、見えないところで願いを叶えようとサポートしてくれる存在を思うと、心強く感じられるのは確かなのだから。