安易になにかに反対するより先に……

2016年11月24日

おはようございます。小出遥子です。

私が仏教に興味をもったきっかけは仏教美術、
仏像や曼荼羅に惹かれたところからだったんですけれど、
たとえば「仏像入門」みたいな本を読んでいると
かならずと言っていいほどピラミッド型の図解が載っているんですね。
頂点は如来、次に菩薩・明王、最後に天部っていう。

で、それぞれの役割が解説されているんですけれど、
天部の神仏たちには、たいていこんな文章があてがわれています。

「仏法および仏教徒を守護する役割を担う」

これが、私には、ほんとうに謎で。

いや、守ってくれているのはありがたいんですけれど、
そもそもなにから守ってくれているのか、そこが謎なんですよ。

というか、一番のツッコミどころは
「仏法」を守る、っていうところですよね。

「仏法」って、言ってみれば「すべて」のことですよ。
文字通り「すべて」。
ありとあらゆる存在が存在する以前に、ただある「すべて」。
そこからはみ出すものなんか、ひとつだって存在しないんです。

天部の神仏たちが、「なにか」から「仏法」を守っているのだとしたら、
その「なにか」は、「仏法」の外側にある、っていうことになってしまいませんか?

おかしいですよね?

だからね、正直、私も……

そんなバカな(失礼)話があるか~い!
さっさとその手に持っている武器を手放しなさ~い!
戦争はんた~い!!!

……なんてことを、長年思っていたのですが、
昨日の朝、夫と話していて、ふと曼荼羅のイメージを思い浮かべたとき、
その疑問が一気に氷解していく感覚がありました。

曼荼羅の中には、ありとあらゆる神仏が描きこまれています。
それこそ、如来から、菩薩から、明王から、天部から……。
当然、中には、「仏法を守ろう」「仏教徒を守ろう」ということで、
恐ろしい表情をして、ものものしい武器を持って立っている存在もいるわけです。

でも、それでいいんですね。
なにも問題はないんです。
だって、曼荼羅は、そのまま「世界」だから。

「世界」という、絶対的なベースの上に、ありとあらゆるすべてが立ち現れている。

その中には、自分(たち)の外側に「敵」を作って、
それと必死で戦っているような存在だってある。
「敵」なんてまぼろしだし、そもそも「外側」というものはないのだけれど、
それでも本人たちは必死になって「内側」のなにかを守ろうとしている……。

でも、いいんです。
それはそれでいいんです。
だって、そういう風にあらわれちゃったんだから仕方ない。

大事なのは、「世界」は、それすら、受容している、ということ。

そのようにあらわれている、ということは、
すでに、絶対的に、ゆるされているということ。

私たちがほんとうに目を向けるべきなのは、
その、圧倒的な事実の方なのかもしれない。

安易になにかに「反対」するより先に、
見つめるべきものがあるような気がするのです。

自戒を込めて、そんなことを思いました。

 

雪、積もるのかな。
通勤やお出かけの方は、どうかお気をつけて。

よい一日をお過ごしください◎