仏が私を待っている

2014年7月24日

仏像は装置に過ぎないということは重々承知の上だが(「仏さまはどこにいるの?」という記事をご参照ください。)、時折、あまりにも「仏そのもの」を感じさせる像に出会うことがあって、そんなときは、その後しばらくその余韻の中で生活することになる。

 

つい先日、山形と仙台を旅した折にも、そんな出会いがあった。山形・寒河江の慈恩寺というお寺にて、私は仏そのものに出会ったのだ。

 

 

 

約20年ぶりの開帳ということで、慈恩寺の境内は大賑わいだった。列に並んで、薄暗い本堂の奥にそうっと足を踏み入れると……

 

そこには、弥勒さまが待っていたのだった。

 

そう、「待っていた」。あまりにも「待たれていた」感じだったのだ。

 

「待っていたよ」の声こそ聴こえなかったものの、彼(彼女?)は、明らかに私を「待っていて」くださった。あまりの「待たれていた」感に、涙も出なかった。

 

ふいに、周りの音が引いていく感覚があった。

 

瞬間、弥勒さまも私もない「世界」が出現したのだった。

 

 

 

これ、決して私やその仏像が特別なんだって言いたいわけじゃなくて。誰にでも、そしてどんな場所においても、こういったことは起こりうると思うのだ。

 

その人にとってベストなタイミング、かつベストな場所で、それは起こる。

 

そして、人間は、その瞬間の訪れを決して予測することができない。予測や期待はそれを遠ざけるだけ。

 

それは、ふとした瞬間に、恩寵のようにして訪れる。

 

 

 

「弥勒菩薩は56億7千万年後に地上に降りてきて私たち衆生を助けてくださる、とか言うけどさ。多分さ、私たちが弥勒さまの出現を待っているんじゃなくて、弥勒さまの方が私たちを待っていてくださるんだよね。」

 

東京に戻る新幹線の中で、私と恋人はこんなことを語り合った。

 

彼にも、昔、東京のはずれのとあるお寺にて、「待っていてくださったんだ」と思うような出会いがあったのだそうだ。

 

「俺が生まれるずっとずっと前からあのお寺はあって、あの仏像も、こっちが仏教に関心を持つ前からずっとずっとあって。お寺を巡るようになってしばらく経ってからあのお寺に行くことになったんだけど。その像の前に行ったとき、待っていてくれたんだって思ったんだよね。こちらの準備ができるまで、ずっとずっと待っていてくれたんだって……」

 

 

 

「仏に会っては仏を殺せ」とは禅語のひとつである。ずいぶんと激しい言葉ではあるが、真実を追求する者への、この上なく真摯なアドバイスだと思う。

 

仏さまは、決して自分と離れた場所には存在しない、いや、存在できないからだ。

 

仏さまは、決して、たとえば「海の向こう」とか、「空の上」とか、どこか遠い場所にいらっしゃるわけじゃなくて、そして、たとえば「56億7千万年後」とか、時間的にも遠く隔たった場所にいらっしゃるわけじゃなくて……

 

彼らは、いつだって、いま、ここで、私たちを「待っている」のだ。

 

こちら側の準備が整って、それを実感として知ったとき、距離や時間は消えてなくなる。

 

そして、その瞬間、「仏」も「私」もなくなるのだ。

 

 

 

仏さまはずっとずっと待っていて、ある瞬間、ふいにこちらの準備が整って、そこで初めて私たちは「出会う」ことができる。

 

うーん……。「出会う」っていうのは決して正確な言い方ではないけれど。だってそれは分離された二つのもの同士の言葉だから……。

 

分離のない世界。二つでない世界。距離や時間を超えて、認識すら超えて、ただただそこに「在る」世界。

 

そんな風に表現するしかない世界。

 

その世界で、私(たち)は……

 

 

 

仏さまは、いつだって、いま、ここで待っている。

 

「世界」そのものとして待っている。

 

 

 

待っていてくれて、ありがとう。