受けいれられないことすら、受けいれられている

2016年11月25日

おはようございます。小出遥子です。

昨日書いたことを、もう少し噛みくだいて説明したくなりました。

昨日は、ざっくり言えば、

「安易になにかに反対するより先に、
すでに、すべてが受けいれられているという事実に目を向けませんか」

みたいなことを書いたわけですけれど、
これ、言い換えれば、

「受けいれられない!」ような事象も、
それに対して「受けいれられない!」と感じる自分のこころも、
すでに、完全に、完璧に、受けいれられている

……ということになるわけで。

誰に? あるいは、なにに?

わからない。
つかめない。
ぜったいに、ことばにできない。

それでも、それは、ある。
いつだって、私たちと、ともにある。

その、絶対的な受容としての“それ”に、
ただただ「ストン」と落ち着いてしまえば、

自分が絶対に「受けいれられない!」事象も、
絶対に「受けいれられない!」という自分の気持ちも、

ああ、これでいいんだな……って。

そんな風に思えたりするんじゃないかな。

個として生きている限り、私たちは、たぶん、
起こっていることすべてを、無条件に受容するなんてことはできない。

できないし、しなくていいのだと思う。
そもそも、無条件の受容は、人間の役割じゃないのだと思う。

私たち人間に、もしなにかできるとしたら、

「受けいれられないことすら(無条件に)受けいれられている」

その事実に、理屈を超えたところからの感謝を捧げることだけ。

ほんとうに、ただ、それだけなんじゃないのかな。

 

よい一日をお過ごしください◎