玄米問題2014

2014年7月26日

あるとき、ふらりと入ったカフェで、中年女性3人と相席になった。彼女たちはずっと自分の試した健康法の話題で盛り上がり続けていた。意識して入ったわけではないが、そこは自然食を出すお店だった。プレートの上のご飯は、当然のように玄米だった。

 

「あ、玄米なんだ。久しぶりだなあ。」

 

何の気なしにつぶやいた私に、中年女性3人の視線が集中した。

 

「普段、玄米、お食べにならないの? もしかして、あなた、白米食べてらっしゃるの?」

 

驚きつつ、「そ、そうですけど……」と、しどろもどろに答えると、彼女たちはため息混じりの苦笑を私に向けた。

 

「おいしいからって白米ばっかり食べてちゃだめ。玄米は身体にいいのよ。身体にいいものはおいしいのよ。さあ、食べてごらんなさいな。」

 

「はあ……」と答えつつ、ひとくち分口に放り込んだ玄米は、素朴な味がして、確かにおいしいような気がした。「おいしいです……」そうつぶやくと、女性たちは「そうよー。身体が喜んでいる感じがするでしょう! 白米を食べたときよりもずーっとね!」なんてことを言って、全員そろって満足そうに微笑むと、ようやく各自の食事にとりかかり始めた。呆気にとられてしまった。それ以降、食べたものの味もあまり思い出せない。

 

お店を出るまで私の心の底はざらつき続けていた。

 

 

 

自炊生活を始めて10年以上になるが、実は私、その間、一度たりとも、自分でお米を買ったことがない。米どころ出身なので、毎年秋になると、田舎の母が一年分のおいしい白米を近所のお米屋さんに注文して、ついでに、と私のところにも送ってきてくれるのだ。おかげで、どんなにビンボーなときでも、お米さえ炊けば、とりあえずおなかを満たすことはできる。恵まれているなあ、と思う。

 

玄米という食べ物の素晴らしさはそこら中で説かれているし、逆に白米の栄養のなさやらGI値や腸内での粘着性の高さやらを糾弾するような言説もそこら中で見かける。確かにそういう側面はあるのだろう。かと言って、即座に白米を切り捨てて玄米生活に走るようなことは、私はしたくないのだ。

 

だっていまの私には、玄米を食べるときには、まだどうしたって「身体にいいんだもんね……」という意識が働いてしまいそうだから。言わば、「頭で食べる」ということをやってしまいそうだから。

 

それは違うよな~、と思うのだ。

 

 

 

母が送ってきてくれる白米の袋には、「笑顔は心の主食、お米は体の主食」と書いてある。人は身体だけでなく、心にも栄養を届けるために、「食べる」という行為をするのだ。そして、食べたものの栄養を身体だけでなく心にまで届けるためには、そこには「笑顔」が必須なのだ。「笑顔」は「よろこび」に言いかえても良いかもしれない。食は本来、よろこびというものと、密接に結びついているはずのものなのだ。

 

しかし、頭で食べたものに、「よろこび」は存在するだろうか。

 

誤解して欲しくないのだが、私は決して、玄米を日常的に食べている方々を否定しているわけではない。心から玄米をおいしく思い、それを食べることを自然に欲するのならば、それ以上のことはないだろうな、と思う。ただ、私にとって、母が私のよろこぶ顔を思い浮かべて送ってくれたピカピカの白米は、栄養たっぷりの玄米よりも、エネルギー的な観点で見たら、もしかしたら、ずっとずっと高いのではないだろうかと思うのだ。数値で計れない大切なものが、そこには必ずあるような気がするのだ。

 

現に、私は毎日、炊きあがった白米の香りを嗅ぐだけで、なんだかうきうきしたような気分に包まれる。ありがたいな、という気持ちで両手を合わせていただくご飯は、ほかのどんな食べ物よりも、人間を満たすような気がしてならない。

 

 

 

機会があれば玄米生活もしてみたいとは思っているが(自分がごくごく自然に玄米というものを受けいれられるようになったときに)、とりあえずいまは母が送ってくれる故郷のおいしい白米に、自分の心と身体を満たしてもらおうと思っている。それでいいのだと思う。

 

今日も元気にいただきます!