煩悩即菩提

2014年7月28日

仏像を観てまわるのは好きだけれど、夢になにかの像が出てくることは、私の場合、ごく稀で。それでも数年に一回ぐらいの割合でお出ましになることがあって、そのうちの一回が、奈良・西大寺の愛染明王さまだった。

 

その像は秘仏になっていて、年に数回しか開帳されない。「いつか、いつか」と言いつつも、私も実際にお会いする機会をいただいていない。

 

でも、夢にお出ましになった方は、明らかに「西大寺の」愛染明王さまだったのだ。そう分かったのだ。私たちは5センチほどの近さで(近すぎる!)じっとお互いを見つめ合っていた。

 

あまりにリアルな距離感で、目が覚めたあとも、しばらく現実に戻って来られなかった。まぶたの裏に、愛染明王さまの「憤怒」とも「慈悲」ともとれる、不思議な表情が焼き付いていた。いまでもくっきり思い出せるぐらい、強烈なビジョンだった。

 

 

 

愛染明王さまは「衆生の愛欲煩悩がそのまま悟りであることを表す明王」(広辞苑より)である。いろんなお寺で縁結びのキューピッドのような扱いをされているのを見ますけど……。「煩悩即菩提(ぼんのう そく ぼだい)」という教えを伝えてくれる仏さまなのですね。

 

ところで、以前も書いたが(「観音三十三応現身」という記事をご参照ください)、私には、新卒で入った編集プロダクションの仕事を、わずか1年と2か月で、逃げるようにして辞めたという過去がある。超キツイ女性の先輩に(いま思えば彼女の性格を「キツく」していたのは私自身なのかもしれないが……)、徹底的にいじめ抜かれたのである。ほとんど衝動的に職を手放してしまった私には、次に自分がなにをしようかというビジョンがまったく見えてなかった。

 

地に足をつけずにふらふらふらふら生きていたある日のこと。その考えは、ふいにやってきた。「文章を、書いてみようかな……」。

 

編プロ時代、私は例のおっかない先輩に、仕事でやることなすことほとんどすべて否定されまくっていた。しかし、唯一、彼女が私を否定しない点があって、それは私の書いた文章だったのである。文章に関してだけは、褒められこそしなかったものの、けなされもしなかったのだ。私にしがみつけるのは、それしかなかった。しがみついてやろう、と思った。

 

つまり、自分の文章というものを書きはじめた当初の私は、どこか「いつか有名になって、彼女を見返してやろう!」とか、「あの頃の私を助けてくれなかったあの会社の人たちを、いつかギャフンと言わせてやろう!」とか、そんな理由で動いていた部分があったのだ。お恥ずかしいことではあるが、どうしたってそれは事実で。言わば煩悩まみれだったわけである。書いていた文章にも、それはばっちり出ていたような気がする。

 

夢で愛染明王さまとお会いしたのは、その頃のことだった。

 

 

 

強烈な夢を見たからと言って、その意味を考えることもせず、私は煩悩まみれになりながら、それでも日々夢中でなにかを書き続けた。エッセイ、日記、小説、ジャンルはなんでも。はじめは「とてもお見せできるようなものではございません~」とか言って、書いたものを人に読んでもらうこともしなかったが(それもまた傲慢と卑屈という名の煩悩ですね)、勇気を出して少しずつ表に出して、意見をもらうように努力を続けた。とにかく書いた。書くための時間を確保するために、生活改善をどんどん進めていった。そうこうしているうちに、逆説的ではあるのだが、書いている間だけは、煩悩まみれの自分というものを忘れられるようになってきたのだ。それはたいそう清々しい驚きを私自身にもたらした。

 

自分の書いたものを私の知らない多数の方々にも読んでいただくことができるようになったのは、本当に(ま・じ・で!)つい最近のことであるが、私はもはや、あの会社の人たちのことを恨みには思っていない。というかもうほとんど意識をしていない。「あの人たちを見返してやろう!」という気持ちは、多分、私の心のどこかには根強く残っているのだとは思うが、それでも、「復讐だけがすべてだ!」という時代は、いつのまにか終わりを迎えていたようだ。だっていま、すごく楽だもの。マイナスのエネルギーは、確かにものすごい瞬発力を人に与えてくれるが、もともとが強い毒性を持つものなので、それを燃やし続けると必ず中毒症状があらわれてくるのだ。いまの私には、その症状は見られない。

 

もちろん、書いたものを褒めてもらえれば、そりゃあ嬉しいし、励みにもなるし、そこに執着してしまう自分はいまでもばっちり存在しているが、でも、私はもはや、自分自身の煩悩を満たすためだけには書いていない、それだけは自信を持って言い切れると思っている。かと言って自分以外の誰かのためだけに書いているとも言い切れず、そこはなんとも表現しづらい点ではあるのだが……。

 

でも、私の書いたものが、誰かの心をなんらかの形であたためたことを知らされたとき、私は、すうっと「自分」というものが消えてなくなって、そこにはよろこびというものだけが満ちているような、そんな感覚を味わうのだ。もはや「私が書いた」とか「私がやった」とか、そういう気持ちはほとんどなく、ただただご縁に感謝するような気持ちだけが残るようになる。

 

「煩悩」から出た行動が、巡り巡って、よろこびのエネルギーとなって、自分自身を「菩提」へと導いてくれる……。

 

そういうことだって、実際、あるのだ。

 

まあ、時間が経つと、また、「私が! 私が!」っていう煩悩が暴れまわりはじめるんですけどね……。これは一生続くのかな。それでも、まあ、いいかな。

 

 

 

「煩悩即菩提」という言葉の意味するところの一端を、この経験によって学ばされてもらったような気がしている。

 

 

 

近いうちに西大寺にお参りに行かなくては。