不寛容社会の大元にあるもの

2016年11月28日

おはようございます。小出遥子です。

ここ最近、とある事情から、「不寛容社会」について思いをめぐらせていました。

著名人のスキャンダルに対する低俗なバッシングや、加熱化するクレーム合戦、
それを受けての過剰なまでの表現自粛……。
人々の他者に対する不寛容の結果、
このような事象が次々に起こっているのだという説明は、
なるほど、そうかもしれないな、一理あるな、と思いました。

でも、そもそも、なんでこんなムードが生まれてしまうのかな……。

と、大元のところを探ってみたら、
そこには「無知」というキーワードが見えてきました。

なにに対する無知か?

自分が、いつなんどきでも、どこにいても、
誰といても、なにをしていても、
絶対的にゆるされて存在している、ということ。

そのことに対する、無知です。

自分が、いまここにおいて、完全、完璧にゆるされて存在していること、
ただひとつ、そのことだけを知らないがために、
自分も、他者も、ゆるすことができなくなってしまっている……。
そういうお話なんじゃないでしょうか。

絶対的な「ゆるし」につつまれた瞬間、
人は、自分や他者を、まるごと受けれられるようになります。

というか、そもそも自分と他者との間の区別がなくなって、
主体も対象もない、ただの「ゆるし」そのものになってしまうのです。

ほんとうの意味での「平和」は、実はそこにしか実現しない。
そして、不寛容社会といわれる現代にこそ、
人々の目覚めの契機は潜んでいるのではないでしょうか。

「ゆるし」は、ほんとうはいつだってここにあるのだから。

絶望するにはまだ早い。
私は、光を見ています。

 

よい一日をお過ごしください◎