神仏の役割

2014年7月30日

数年前の冬から春にかけて、私は、自他ともに認める人生最大のピンチってやつを経験していた。ありとあらゆる意味での「ヤバいこと」が2つも3つも4つも重なって、私はもう、すっかり押しつぶされそうになっていた。その「ヤバいこと」も、いま思えばぜんぶ自分が招いたものだったのだが、当時の私は、これ以上自分が傷つかないようにと、無意識のうちに「被害者意識」という武器を振りかざして、無害な人々までをも傷つけて回っていた。そうでもしないと生きられない、そんな風に思いこんでいたのだ。

 

そんなあるとき、私は旅に出た。旅なんかしているほどの精神的な余裕も、金銭的な余裕もなかったのだが、前々から決まっていたことだったので、重い心と身体を引きずるようにして出掛けていったのだ。

 

這うようにして辿り着いた、とある山奥で、私は巨大な観音さまの像と出会った。

 

向き合った瞬間、はっとした。観音さまは、泣いていたのだった。目をうるませ、端っこを赤く染め、鼻までも真っ赤にして、観音さまは泣いていた。いや、泣くのを必死でこらえているような顔をしていた。ぱんぱんにむくんで不細工で……。それでもものすごく綺麗で……。

 

室町時代に作られたというその観音さまの目は、「玉眼」という、もとから光っているように見せる技法が取られていたし、ライティングの具合で、たまたまそう見えたのかもしれなかった。

 

それでも、私は観音さまの泣き顔から目を離すことができなかった。

 

私は観音さまのお顔に、ある人の顔を重ね合わせていた。その人は、私の「人生最大のピンチ」のうちの、まさに最後にして最大の出来事に、ばっちり関わっていた人だった。というか、まさに張本人だった。瞬間、私の頭の中に、その人との最後の瞬間がフラッシュバックした。

 

最後のあの瞬間、彼は必死で涙をこらえていた。彼もまた、泣いていたのだ。

 

彼もまた、傷ついていたのだ。もしかしたら、私と同じだけ、彼も……。

 

うまく泣けなかった私たちの代わりに、目の前の観音さまが涙を流してくださっているような気がしてならなかった。と思った瞬間、私の目からも涙がこぼれていた。それと同時に、被害者意識という実体のない不吉な塊が、じわじわと溶け出していくのが分かった。

 

 

 

神さまや仏さまの「役割」ということを考えるときに、いつも思い出すお話がある。

 

オーストラリアのすぐ北に、東ティモール共和国という人口約100万人の国がある。この国は24年もの間、インドネシア軍の厳しい軍事統制下にあった。人口の3分の1が占領時にいのちを落としたと言われているこの国は、2002年に独立を果たした。そのやり方が、従来の「暴力には暴力を」というやり方とは異なっていて、あくまで相手軍との「対話」をもって進めていったのだそうだ。捕虜を説得して、そのまま無傷で返して、地道に味方を増やしていく……。その背景には、東ティモールの方々の、「目に見えない存在」とのごくごく自然な交流をベースとした生活があった――

 

東ティモールの人々の生活の一端を切り取ったドキュメンタリー映画『カンタ!ティモール』の上映会に行ったときのこと。本編の上映ののちに、その映画を撮った広田奈津子監督のトークショーが始まった。その中に、ものすごく印象的なお話があった。

 

東ティモールのある村に泉があって、そこには村人みんなが「おばあさん」と呼んで敬って大切にしていた一匹のワニがいた。しかし、ある時、インドネシア軍が、その「おばあさん」を殺してしまった。皮や肉が高く売れるから、と言って……。思わず「それはみなさん怒ったでしょう!」と聞いた広田監督に、村人は静かにこう言ったのだそうだ。

 

「私たちは、ただ弔った。怒るのは神さまがやってくれるから。」

 

 

 

必要以上に嘆いたり、悲しんだり、怒ったり、恨んだり、罰を与えようとしたり……。私たち人間は、もしかしたら、本当は自分たちがやらなくていいことを必死でやろうとして、それによって自らの首をぎりぎりぎりぎり締めつけて……やればやるほど苦しくなることは分かり切っているのに、それ以外の方法が取れなくて、同じことを何度も何度も繰り返して……。そんなことばかりやっているような気がする。

 

神さまや仏さまに「それ」をすべて預けてしまえれば、どんなに身軽になることか。

 

そして、空いた両手両足で、どれほど美しい世界を作っていけることか。

 

 

 

人間にはやはり、ある程度の信仰心が必要なのだと思う。(あくまで「信仰」です。「宗教」とは違います。特定の誰かや何かを「崇拝」する(させる)ような宗教は、結果、自我を強めてしまうだけだと思うけれど、信仰は自我をそぎ落としていったところに残る「なにか」だと思うのです。うまく言えないけど……。これについてはいつかまたあらためてまとめます。)自分ではどうにもできない、どうにも抱えきれない闇を「預かってくれる」、そんな役割を持つ存在を感じることが必要なのだ。ただし、その存在はどこか遠くに、自分と切り離されて「いる」のではなくて……。

 

 

 

手放せるものみんな手放して、預けられるものみんな預けて、そうやって生きていけるのならば、きっと、この世界は――